古代エジプトの文化
気になるキーワードごとに簡単にまとめてみました。
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上エジプト・下エジプト ナイルの増水 歴史の流れ 世界観
神さま ミイラと死後 死者の書 ヒエログリフ(文字)
パピルス ピラミッド フェニックス? スフィンクス
王様の名前
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<上エジプト・下エジプト>      ▲ページトップへ▲

 エジプトといえば、砂漠、そしてナイル川。
 簡単に言うと、こんなイメージでしょうか。

 確かに、エジプトには砂漠がありますが、
 さすがに、砂漠に人は住めません。
 実際は、砂漠が多いとはいえ、ナイル川周辺は、緑に溢れていました。
 当然、町も川の周辺に出来てきます。

 さて、古代エジプトについて書かれた本を見ると、
 必ず、「上エジプト・下エジプト」という書かれ方を目にします。
 この、上・下、という感覚が、特に古代エジプトにおいて、とても重要なものでした。

 まず、下(しも)エジプトとは、
 ナイル川の下手の、デルタ地帯(地中海に注ぎ出ている扇状の、川がいく筋にも分かれている部分)で、
 地図で言うと上、北側の地域を指していました。
 ヘロドトスの言う『ナイルの賜物』である土地で、
 川が運んでくる土が蓄積されてできた、農耕に適した湿地帯でした。
 この下エジプトでは、早くから農耕が始まっていたそうですが、
 同時に、放牧も行われていたといいます。
 東西との交流が古くから見られ、
 変化も比較的ゆっくりでした。

 そして、上(かみ)エジプトは、
 デルタ地帯より川上、地図でいうと下、南の方を指していました。
 下エジプトに比べ、上エジプトのほうが、ずっと広く感じますよね。
 でも、南に行けばいくほど、川沿いの緑地帯はそりたつ岩壁に挟まれ、あまり土地がありませんでした。
 ここでは、農耕の始まりが下エジプトより少し遅かったようですが、
 そのかわり、一度始められると、その依存度が高かったのか、
 様々な道具の変化、それに伴う技術の発達が短期間で起こったようです。

 エジプトは南北に広がる国ですが、
 移動手段として、陸上よりも水上、
 ナイル川を船で移動する方が、ずっと早く、楽だったようです。
 上から下へは、川の流れに乗っているだけで行けますし、
 風がいつも北(川下)から吹いていたので、帆を張れば、川をさかのぼることができます。
 東西の砂漠の外にある他の国、
 海の向こうの北の国や、急流のため船でいけない南の国より、
 ナイル河畔の民は、お互い身近に感じられたのでしょうか。
 同じナイルの恵みで生きるものとして、同族意識があったのかもしれません。
 もしかしたら、上エジプトの人々は、
 農耕用の広い土地がある下エジプト、
 ナイルの恩恵を多く受けるその土地を、欲しいと思ったのかもしれませんね。

 古代エジプトの歴史は、この二つの国、上下エジプトが
 上エジプト側から統一されることで、始まります。

 以来、古代エジプトの王は、「二国の」王であることを強調し続けます。
 片方だけでは、本当のエジプトじゃない。
 片方だけ治めても、王とは認められないのです。
 古代エジプトの、長い歴史の中には、
 「中間期」と呼ばれる時期が3度ありますが、
 これは、王のいない混乱期、上下別々の王が立ってしまった時期、異民族の侵略を受けた時期で、
 上下の国が、統一されていない時期を表します。

 王は、様々な文献の中、碑文や壁画の中で、
 王の称号として、「二国の主(ネブ・タウィ)」という表現をよく用います。
 王冠は、「二重冠」と呼ばれ、
 上エジプトの赤冠、下エジプトの白冠が、合体したものを、被ります。
 王の即位を記念する祭り、セド祭では、北と南、それぞれを向いた二つのテントで、
 赤冠、白冠をそれぞれ被り、椅子に腰掛ける王の姿が描かれます。
 このセド祭を表すヒエログリフも、二つのテントが左右対称になっているものです。
 王様の名前だって、「即位名」と呼ばれる、ネスウ・ビト名は、
 スゲ草(上エジプトの象徴=ネスウ)とミツバチ(下エジプトの象徴=ビト)で表します。
 このような表現はとても多く、
 スイレン(上エジプト)とパピルス(下エジプト)、
 ハゲワシ女神(上エジプトの白冠の守護神ネクベト)とコブラ女神(下エジプトの赤冠の守護神ウワジェト)、
 古くは、ホルス(上エジプト)とセト(下エジプト)といったように、
 多くの象徴的表現で表されるのです。


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<ナイルの増水>      ▲ページトップへ▲

 
エジプトは“ナイルのたまもの”。
 ヘロドトスが自身の著書『歴史』で、
 古代エジプトについてを表した有名な言葉です。
 歴史のテストでも、よく出てきますよね。

 この言葉には前後があって、
 この文ひとつで捉えられるような意味とは、少し違うニュアンスで語られているようですが、
(『上エジプト・下エジプト』の項参照)
 それでも、エジプトはやはりナイルの賜物なのだ、と言えるのではないでしょうか。

 その一番の理由は、
 やはり、ナイル川の定期的な増水
 ナイル川は、世界一長い川と言われていますが、
 さかのぼって、南へ南へ行くと、二つの川が合わさってできたものと分かります。
 その一方の、水源近くで、毎年ある一定時期に雨が降り、
 その雨水で増水したものが、ナイルに流れ込み、川の水量は徐々に増えていきます。
 ドッと押し寄せる、災害のイメージ「洪水」とは異なり
 古代エジプトの人々にとって、この増水は、神の恵として喜ばれ、
 果物や魚や花を両手いっぱいで抱えた、豊満な体つきの、ハピという神として表現しました。

 増水が始まるのが、毎年7月頃。
 ナイルは、数ヶ月かけて川幅を広げていきます。
 増えた川の水は、土に溜まった塩分を洗い去り、肥沃な土を運んできます。
 これが、農耕に最適な土だったというわけです。
 水が引いたら、水と栄養をたっぷり含んだ土の上に種を撒き、
 そうして、多くの作物が実り、国が栄えたのです。

 ただし、
 ナイルの増水は、常に一定ではなく、
 時に水量が少なすぎたり、多すぎたりしました。
 少なすぎれば、農耕できる土地が少なく、収穫も減って飢饉となり、
 多すぎれば、家屋が流されたり、農耕を始める時期が遅れて収穫が減るばかりか、
 疫病が流行ることさえありました。
 この増水の度合いは、国の貧富に関わる重要な関心ごとでしたので、
 上下エジプトが統一された当時から、国が管理する重要な事柄として、
 ナイルの水量を観測した記録があります。

 ナイル川の増水は、
 直接的には、上のように、農業で国を繁栄させましたが、
 増水の時期を見定めるために、天体を観測し、
 シリウスという明るい星が、太陽と共に昇る時期と、増水の始まりの時期が、ほぼ一緒だったことを突き止めたりと、
 天文学の発達にも繋がりました。
 ピラミッドなどの巨大な建造物も、この天文学の発達なしには作りえなかったといわれています。

 ちなみに、ナイル川は
 古代エジプト語で「イテルゥ」と呼ばれましたが、
 これは、『川』そのものを意味するようです。
 国に一本しか川がなかったので、特別名前をつける必要がなかったのですね。
 『ナイル』という言葉も、この『イテルゥ』からきているとされています。


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<歴史の流れ>      ▲ページトップへ▲

 このサイトは歴史について書かない、としていますが、
 初歩の初歩を、ちょっとだけ。

 約3000年も続いたといわれる古代エジプトの歴史。
 壁画などを見ると、なるほど、ほとんど同じ様式で、
 変化していないようにも見えます。
 けれど、3000年の間、
 全く変わらなかったかというと、そうではありません。
 
 人々の生活、階級の変化、
 外国との関わり、そして信仰。
 王国の盛衰に合わせて変化していった、古代エジプトの歴史を、
 簡単に、三つに分けて紹介します。

****

1.古王国時代
 ・上下エジプトが統一され、王権が確立し、国政が整ってから。
 ・第3〜第6王朝。
 ・首都:メンフィス
 ・国家神はホルス神→ラー神。
 ・ギザの三基の他にも巨大なピラミッドが作られた頃。
 ・中央集権が強固だった。

(第一中間期・・・権力が地方に分散する)

2.中王国時代
 ・第11〜13王朝
 ・アメン神の台頭
 ・すぐれた文学が多く残されている。
 ・軍事強化しはじめる。
 ・コフィン・テキストが書かれるようになる。
 ・治世が短い。

(第二中間期・・・ヒクソスの侵入/馬や馬車、異国神など多くの文化が入り込む)

3.新王国時代
 ・第18〜20王朝
 ・美術・国政の絶頂期。
 ・アメン神が最高位に。国家神はアメン・ラー。
 ・アメン神の神官団が絶大な力を持つ。
 ・アクエンアテンの宗教改革、ラムセス2世「カデシュの戦い」など。
 ・死者の書が作られるようになる

(第三中間期・・・外国の王、上下の分離・・・)

****

 以降、末期王朝時代を経てプトレマイオス朝、ローマ時代と移っていき、
 ヘレニズム、ギリシャ・ローマの文化が色濃く入り込みます。
 キリスト教が興り、それ以外の宗教が廃止されたことで、古代エジプトの文化は絶えてしまいますが、
 エジプト土着のキリスト教の一派(といって大丈夫かな・汗)、『コプト教』によって、
 僅かに今日にも伝えられているといいます。

 クレオパトラは、プトレマイオス期に入り、
 マケドニア人だったといわれています。
 
 歴史は苦手なので詳細については触れられませんが、
 宗教観や神々のことを知るにも、
 いくらか、歴史についてを知っておかないと、
 政治的な理由で変化する面があったりするので、ある程度は。
 かなり簡単な説明でした……。


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<世界観>     ▲ページトップへ▲ 

 古代エジプトの人々は、
 自分たちの生きる「世界」を、どのように捉えていたのでしょうか。
 宗教書に記され、表されてきたものを参考にして、考えてみようと思います。

 まず、一番よく知られているのは、
 横たわる男の神様=大地、
 その上に、弓なりになって覆いかぶさろうとしている女神=天空、
 その二つの間に立ち、天空(女神)を支えている男神=大気。
 この図は、ヘリオポリス(太陽信仰発祥の地)で考えられたもので、
 壁画などで、よく描かれているのを見ます。
 当然、ヘリオポリスの神話から生まれた考えなので、
 古代エジプトの人々が、皆これと同じように、世界を考えていたかどうかは、分かりません。
(創世神話は、他にもヘルモポリスやメンフィスにあるものなど様々です)
 けれど、天を表すヒエログリフやシンボルなどを見ると、
 天井の形に、よく、支えの棒が一緒に描かれている事があり、
 空は『支えられている』というイメージは、広く認識されていたのかもしれません。
 この天の女神は、雌牛で表されることも、よくありました。

 また、
 古代エジプトは広い国だったので、
 創世神話なども、様々あったのですが、
 どれも、『混沌』の概念が『ヌン(ネヌウ・ヌウン)』と表され(ヌンだけでないこともあります)、
 それが、水のようなものを表していたことも、共通しています。
 ヌンは、原始の状態を語る上で、非常に重要な概念で、
 『始めの』神々など、すべてのものは、必ずそこから生まれてきました。
 ヌンの概念がどこから始まったのか、どう広まったのかは分かりませんが、
 ナイルの川辺に生きる民として、
 ナイル川の定期的な増水で、大地に広く満ちていく水、
 それが引いた後、大地に溢れる様々な生命……植物や、動物ももちろん……を見た当時の人々が、
 世界の始まりが、水のようなものであった、と考えるのも、当然のことかもしれません。
 また、そのように考えると、
 創世の始めが、「丘が現れる」こと(=ナイルの水が引き陸が見える)だったり、
 「カエルと蛇」たちの交わりによって命が現れること(=水辺の生命の誕生)が、
 とても自然な発想に思えてきます。
 
 また、古代エジプトの独特の思想として、
 この世とあの世が『鏡合わせ』のようなものである、という考えもありました。
 王墓の壁画などに、
 上下、背合わせになって、身体を伸ばした女神を描いたものが見られます。
 この図は、上記の「大地の上に空の女神が覆いかぶさる」という考えと矛盾しますが、
 重要なのは、
 太陽は、朝生まれ、昼はこの世の空を「昼の船」でわたり、
 日没と同時に死に、夜は死後の世界を、「夜の船」でわたり、
 また朝、再生する(復活する)という考えで、
 それが古代エジプトの人々の生死観を表す、重要な思想でした。
 ですから、多分、
 本当は死後の世界が地下にあるのか、夜の空にあるのか、というのは、
 さほど重要な問いではなかったのかもしれません。

 また、人間は、
 太陽神ラーの涙から生まれたと言う思想や、
 増水を司る神クヌムのろくろで、ナイルの泥から作り出されたとする思想もありました。
 
 時代による違いは当然ですが、
 二国が統一されていた時代も、様々な思想が地域ごとに異なっている事が多く、
 寛容と言うか、いい加減と言うか、適当と言うか……ですが、
 時代を通して、地域差なく信じられた、
 オシリス信仰(死後の魂の復活・幸福の約束)などの思想を見ると、
 古代エジプト人が、死後の安定について強い関心を持っていた事が、うかがえるようです。

もう少し詳しいことは、古代エジプトの神話・物語の、創世神話へ(別窓)。

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<神さま>      ▲ページトップへ▲ 

 神様、というと、どんなものを想像しますか?
 お髭のついたおじいさん? 雲の上に住んでいて、金ぴかもしくは真っ白の服を着ていて、永遠の命をもっていて、何でも作り出せて、……。

 エジプトの神様は、様々な役割を持ったものが、数え切れないほどたくさんいます。
 特徴は、一言で言えば、
 動物の頭を持った人で表される、ということでしょうか。
 もちろん、人と同じように描かれる神様もいました。
 その場合、「おひげ」がありました。顎からにゅっと伸びて、先がくるっと曲がっている、細長い付け髭。
←大地の神ゲブ。男の神様にはつけひげが。頭の上には、名前を表すものが乗っていることが多い。


 雲の上に住んでいるか、という問題は、とても難しくて、
 例えば、太陽神だったら、船に乗って毎日、お空をわたっていますし、
 大地や天の神なら、いつも足元か頭上にいるのでしょう。
 王権に深く関わる神々は、面白いことに、
 大地のずっと深いところ=地平線の向こうの方とか、空のずっと高いところに、いるとされていました。
 時代や地方ごとに変わったり、少し曖昧で、矛盾も多かったりしています。

 古代エジプトには、たくさんの町があって、それぞれ別の神様を崇めているかと思えば、
 それが突然、重要な神様になったり、人気が出て、国中に広まったり…、
 地域を越えて、その神様の「得意とすること」に関係する仕事場で、崇められていたり、
 宗教の思想の発展や、異文化との交流で生まれた概念を神聖視したものがあったり、
 ……季節や方角を象徴するものを神格化したものから、
 家庭的な、安産祈願の神様とか、本当に、ピンきりと言うか……。
 数えられないというか、どこまでを含めるのか、戸惑ってしまいます。

 ただ、はっきりといえるのは、
 悪い神様、善い神様、といえるような、はっきりとした分け方はなく、
 それぞれが大切な概念を持ち、相互に影響しあう関係であった、ということと、
 どんな偉い神様も、いずれは死ぬ運命にあり、死を恐れていた、ということです。
 荒ぶる砂漠の神、セトも、死せる王の神、オシリスでさえも、です。
 ただし、後世の、民間の信仰では、それらはあまり意識されていなかったようです。

もう少し詳しいことは、古代エジプトの神々のページへ(別窓)。

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<ミイラと死後>     ▲ページトップへ▲ 

 古代エジプトで有名なものの一つに、ミイラがあります。
 死んだ人の内臓を取り出して保管し、肉体を腐らせないよう様々な処理をしたあと、布で綺麗にくるんで、形をとどめるものです。
 その技術は他に類を見ず、高度で、またそのために医学も発達していたといわれています。

 一体なぜ、古代エジプト人はミイラを作ったのか。
 それは、古代エジプトの人たちが「魂の復活」を望んだからなのです。

 永遠の命が、夢物語に過ぎないと言い切る現代の人々にとっても、
 死は、恐怖としてとらえられます。
 今確かにいる人が、自分が、消えてなくなってしまうこと。
 その瞬間の痛みや苦しみもさることながら、その後どうなるのか、全く見えないとなれば、不安になるのも当然でしょう。
 死の克服。
 それは、必ず死ぬという運命を背負って生きている私たちの、永遠のテーマなのかもしれません。

 古代エジプトの人々も、
 はじめは、私たちと変わりなく、死を恐れていました。
 しかし、初期王朝時代、神である王様は、他の人間達とは違っていました。
 王は特別であり、死後はまた神として、神々の世界に迎え入れられるのです。
 そしてまた一方、王として生きた魂(この場合はカー)が、次なる王の中に復活する。
 そのような思想が、第5王朝に出てくる「ピラミッド・テキスト」で表されます。
 その思想は難解で、王様だけの、特別なものでしたが、
 第一中間期の前後、財力と権力をあわせ持つ貴族達が、
 それを真似て、王でない自分たちも、死後に神々の国に復活すると考え、
 棺に、呪文を書き記したのです(コフィン・テキスト)。
 そうして、
 王だけのものであったこの思想は、一般へと広がっていき、
 ついには、どんなものも、死後は来世の幸福な世界に生きる事ができる、という、
 古代エジプト独特の来世観が、確立していきます。
 人々は、死後も幸福に生きるため、
 生きているうちから墓を作り、亡くなるとミイラにしてもらい、「死者の書」という冥界案内書を一緒に収めました。

 古代エジプトの死後の思想で、もうひとつ特徴的なのが、
 「魂」またはそれに準ずるもの、として、重要な3つの概念があったことです。
 バーと、カーと、アク。
 そのうちバーは、
 顔が人(死者本人)で、体が鳥の姿で表されるもの(文字としてはコウノトリ)で、
 人が死ぬと現れる、霊的な分身としてとらえられていたようです。
 肉体から離れ、この世とあの世(死後の世界)を自由にとぶ事ができ、
 昼は来世の野(天国のようなもの)へ、夜は肉体に戻って休息するとされています(そのため、ミイラが必要なんですね)。
 神々も、バーとして鳥や牡羊の姿を持つことから、死後に限ったものではないようです。
 また、面白いことに、ある一定の都市などにも、バーやバーウ(複数形)と呼ばれるものがありました。

 カーは、
 両腕を垂直に曲げ、5本の指をピンと伸ばして、天を差すような形で描かれました。
 カーは一般的に、「生命力」と訳される事が多いのですが、
 古い文字表記を見ると、本来は男性の生殖機能の強さを示していたのではないか、という考えもあります。
 (同じく生殖機能の強さの象徴とされる雄牛が、同じ発音であることも、その証拠とされる事があります)
 生まれた時から備わっているもので、捧げられた供物を食べることで維持されるとし、
 また、先祖から受け継がれるような要素を持つ、ということもあったようです。

 最後に、アクについて。
 アクを表す文字は、ホオアカトキというコウノトリ科の水鳥だそうです。
 死後、冥界の道を案内書に導かれて進んでいくのがバーなら、
 このアクは、そのバーが冥界で変身を繰り返した後で、最後にとる形とされ、
 よく、「聖霊」と訳されています。
 低級な神を表現したり、立派な、といった言葉にも使われることから、
 神聖で尊い、完全な魂、といった概念だったように思われます。
 このアクになって、神々のいる世界で永遠に生きる事が、人々の願いでした。


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<死者の書>      ▲ページトップへ▲
 
 古代エジプトの神々や神話など、宗教に触れると、
 必ず出てくる『死者の書』。

 新王国以降、死者の棺の中に、ミイラと一緒に入れられていたパピルスの巻物は、
 『日のもとに現れるの書』と呼ばれています。
 文の書きはじめをタイトルにしているもので、「ペリィト・エム・ヘルウ」と読まれます。
(厳密に言えば、「…現れる(ため)の呪文の始まり」という文なので、書き始めは「ハアト(先頭)・エム(〜の)・ルゥ(呪文)・ヌウ(それらの)・ペリイト(現れる)…」みたいな感じなのですが)
 ヒエログリフで、死後の世界の道案内を、挿絵付きでかいてあるものです。

 死後の世界は、危険がたくさんでしたので、
 それらを避ける方法や、
 そこに住む神々の名前と、賛辞を記していたり、
(名前を知らないと、通してもらえなかったり、供物をもらえなかったりします)
 バー(魂)の変身が書かれていたり。

 最も有名な場面は、やはり、
 心臓をはかりに乗せる、死者の裁判の場面でしょう。
 片方に「真理(まこと・正義)」の羽(真理の女神マアトのことも)、もう片方に心臓をのせ、つり合うかどうかを見ます。
 罪を犯せば、心臓が重くなりますから、羽とつり合うように、軽くないといけません。
 その場面では、心臓が、「私は〜しませんでした」と、様々な罪の否定をします。
 もし嘘だったら(罪を犯していて、天秤が傾いたら)、
 そばに控えている怪物アンムト(顔がワニ、前足がライオンで後足はカバ…怖い動物ばかり組み合わさったもの)に、心臓を食べられ、
 永遠に闇の中、復活は出来なくなってしまいます。

 そうして、天秤が無事つりあい、
 無実が認められると、死者は「マア・ケルウ=声正しきもの」と呼ばれ、
 天国のような場所…イアルの野とか、ヘテプの野とか言われる、すばらしい場所にゆけるようになります。
 そこは、生前に暮らしたエジプトの環境とよく似ていて、
 溢れるほどの川の水、たくさんの緑に満ちた場所で、
 果物や作物も山のようにとれる、それは夢のような場所だったようです。
 人々は、死後も生前と同じように、働き、そして飲み食い、楽しく「生きる」ことを望んでいました。

 さて、『死者の書』は、新王国以降に、死者と共に埋葬された、と書きましたが、
 それ以前はどうだったのでしょう。

 古代エジプトの歴史が始まってから、しばらくは、
 魂の復活と、それに対する祈りや儀式は、全て、王のための特別なものでした。
 どんなものであったかという資料は、あまり多く伝わっていませんが、
 古王国時代末ごろの、『ピラミッド・テキスト』に、
 最も古いこの思想が、刻まれています。
 王様のためだけのものですから、思想が独特で、
 呪文はほとんど、亡くなった王様が神様と同じになる、と主張すること、
 それをいくつも繰り返す形で、挿絵もありませんでした。

 ところが、第一中間期を経て、中王国時代になると、
 王様の特権だったこの「魂の復活、オシリスとの同化」の考えが、
 貴族にまで広がっていき、
 ピラミッドテキストのうち使えそうなものをもらってきて、
 いくらかの挿絵と共に、それぞれの棺に書き記しました(『コフィン・テキスト』)。
 心臓をはかりにのせる場面は、この頃から加えられ、
 死者の書の原型になったそうです。

 新王国時代からは、一般にも広まって、
 パピルスに記されるようになったのですが、
 この呪文は、注文して組み合わせたり、名前だけを書き入れる即席ものもあったようです。


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<ヒエログリフ(文字)>      ▲ページトップへ▲

 古代エジプトの文字を見たことはありますか?
 神殿やお墓などの壁画に描かれた絵や図の列、それが、古代エジプトの文字「ヒエログリフ(象形文字・神聖文字)」です。
 だいたいは、横に線が引っ張ってあるので、「ああ、文字なのかな?」と気付くかも知れませんね。
 パピルス(植物で作った紙)に書かれたものならなおさら、文字らしいですよね。

 壁画など、特に、色の塗ってあるものを見ると、
 あまりに美しく、鳥なら種類までわかるように描かれているものですから、
 どうしてもその描かれたものを指すような気がしますよね。
 そこがむかしむかしの考古学者を悩ませたところ。
 実は、もう皆さんご存じかもしれませんが、これらは絵がそのまま意味を表すものばかりではなく(そういうものもいくらかありますが)、
 ひらがなやカタカナ、アルファベットのように、読む音を表す記号(表音文字)を含み、
 さらに、文法まできちんとある、れっきとした文字だったのです。

 古代エジプトのヒエログリフは、
 その美しい絵柄から、事柄を書き記すことに留まらず、祈りを込めた装飾などにも多く使われてきました。
 腕輪のデザインを見ても、絵を描いているような、文字を書いているような、と思うようなものがありますね。
 古代エジプトでは『メドゥ・ネチェル=神の言葉、または、神聖なる言葉』と呼ばれており、
 害をなすと思われる動物や虫の絵(毒蛇やさそりなど)は、頭を切り落としたり、ナイフを突き立てて描かれることもありました。
 描くことで、文字そのものが、特別な魔力を持つ、と思われていたことがわかります。

 形の美しいヒエログリフは
 神殿や碑文など、大事なことを書き記す時に使われたようで
(それ以外には、走り書き用に別の形=ヒエラティックがありました)、
 勉学をつんだものだけが読み書くことのできるものでしたが、
 だからこそ、「書記」という職業は、安定した職で、多くの憧れであったようです。

 ヒエログリフは、古代エジプトが上下統一された時には(第一王朝)、ほとんど整っていたといわれています。
 それだけ長い間使われ続けたのですから、やっぱり、形や使われ方も変わっていったようです。
 新しいものが入ってきたり、後代の勘違いや、同一視してしまったりということも……。
 そういうわけで、
 ちゃんと文法もある、「読める」文字・文章なのですが、
 それはつまり、文法まで勉強しないと、ちゃんと読むことはできない、ということなんですよね……。

もう少し詳しいことは、ヒエログリフのページへ(別窓)。

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<パピルス>      ▲ページトップへ▲

 エジプト文明の後世への影響のひとつといえば、
 後に「紙(paper)」の語源にもなるこの「パピルス」。
 今でも私たちの生活には紙は欠かせませんものね。

 パピルス草(古代エジプト語でメヒイト)は、
 水辺に生える、背の高い草で、
 茎が三角形の特徴的な植物です。
 その茎を薄く裂いて、縦横に並べ、
 たたいて平たくしたものを乾かすと、
 パピルス紙のでき上がり。
 白くて薄いほどいいものだったそうです。

 パピルスの植物自体は、今はほとんど見られませんが、
 昔は本当にたくさんあったらしく、
 壁画にも当たり前のように描かれ、下エジプトのシンボルとされたり、
 とても身近なものだったようです。
 先史時代から、船にしたり、ござやかごを編んだり、根は食用だったりと、
 パピルスにはたくさんの使い道があったようです。
 パピルス紙も、はじめは文字を書くために作られたのではない、と考えられています。
 また、初めの頃は、
 貴重なものだったためでしょうか、文字を書いても、使い終わったら洗い流され、また使ったりと、
 リサイクルされていたそうです。

 パピルスに記されるものは様々ですが、
 有名な「死者の書」や、その他の宗教に関する書物、
 医学書、数学書などから、教訓がかかれたもの、
 そして、物語などの文学作品もありました。

 パピルスにたくさん文字を記すようになっても、
 パピルス紙が貴重なものであったことに、変わりはありません。
 文字を学ぶ書記候補生などは、
 土器片などに、文字を書いたりして、練習することもありました。
 また、王の偉業など、より重要な事柄を記そうとした時、
 パピルスより、永遠に形が残る石に、直接文字を刻む、という方法は、
 ずっと変わることはありませんでした。


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<ピラミッド>      ▲ページトップへ▲

 広い砂漠のど真ん中(?)。
 三角すいの、でっかい石の建物が、あったとさ。
 ……いや、今でもあるんですけどね。
 大人一人の背を越える大きさの石が、数え切れないほど積み上げられて、
 適当な山よりずっと高い、ピラミッド。
 中には通路や部屋もあって、複雑な構造のこの建物が、
 今から5000年も前、クレーンのような機械もなく、鉄器すらなかった時代に作られた、なんて言われたら、
 人間業じゃない、別の高度文明のものではないか、と言われても、仕方ないかもしれませんね。

 とはいえ、
 いつも取り上げられる、ギザの三大ピラミッドだけでなく、
 それ以前も、以降もしばらくは、古代エジプトでピラミッドは作られていました。
 ですから、あの大きなピラミッドが、あの時代に突然、ポーンと出来上がったわけではないのです。
 形は様々ですが、構造がよく似ており、
 特に内部の構造は、ピラミッドの建設をやめた後世の墓にも、似たような形がみられます。

 だいたい、第3王朝ごろから作られだしたピラミッド。
 それ以前にも、マスタバと呼ばれるような、埋葬部の上に礼拝堂などの付いた建造物を立てていましたが、
 だんだん、それが階段状になって、高くなって、
 表面を滑らかにしていったり…というのは、やはり、宗教の変化によるものではないかという見方が強いようです。
 実際、王名を見ても、
 初代の、ホルス神を掲げた「ホルス名」だけだったものが、
 第4王朝から、即位名に太陽神ラーの名が加えられるようになり、
 第5王朝で、ピラミッドが小さくなった代わりに、内部に書かれるようになった呪文を見ると、
 太陽信仰が大きく影響している事が分かります。

 ピラミッドは何のために作られたのか。
 今の定説では、おそらく墓だろうということになっています。
 ただ、誤解されやすいのは、
 墓と言うと、私たちは、死者(または死者のミイラ)を葬る場所、というイメージが強く、
 ミイラもその形跡も残されていない事が、疑問に思われるでしょうが、
 この時代の王は、特別な存在だったということを、忘れてはいけません。
 ピラミッド建設が下火になる頃、描かれ始めた「ピラミッド・テキスト」では、
 王の死後、オシリスやラーはもちろん、多くの神々と同等となること、
 つまり、様々な神と同じ存在またはそれ以上のものになることを、強調していました。
 人の死ではなく、神の死である(それは同時に神としての再生でもある)としたら、
 ふつうの死者の眠る墓とは、一風違う形になっても、不思議ではありません。

 個人的には、墓という言葉の定義の違いによる問題ではないかと思いますが…。


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<フェニックス?>       ▲ページトップへ▲

 フェニックス。不死鳥。
 死なない鳥、何度死んでもよみがえる鳥。
 ギリシャ神話で語られるフェニックスの原型が、
 古代エジプトにあるといわれています。
 その名は「ベヌウ」。

 私たち日本人にとっては、
 手塚治虫氏の漫画『火の鳥』のようなイメージが
強いかもしれません。
 あるいは、鳳凰?
 まあ、どちらも、イメージ的には近いですよね。
←ベヌウのイメージ(一部抜粋したものです)
 古代エジプトの不死鳥ベヌウは、太陽の鳥といえました。
 というのは、
 この鳥は、創世の時に、ヌン(混沌の水のようなもの)から初めて浮かび上がった、睡蓮の中の、卵から生まれた鳥であり、
 つまり、生まれ出た太陽神であると、解釈されたからです。
(ベヌウの語源となったとされているウェベンという語は、光り輝いて昇る、とか、立ち上がる、という意味だそうです)
 もっと前には、それは睡蓮ではなく、ヌンに始めに浮かんだ原始の丘に、始めに降り立った鳥だとか、
 その、丘自体だったという表現もあります。
 じっさい、ベヌウの信仰が盛んだったと思われるヘリオポリスは、太陽信仰の中心地で、
 『原始の丘』を神聖視し、それを『ベンベン』と呼んでいたようです。
 同じ理由で、原始の神アトゥムと同一視されることもありました。
 
 古くはセキレイであったと言われていますが、
 広く知られているのは、アオサギの姿です。
 どちらも水鳥、色も地味で、「太陽の鳥」というイメージではないかもしれませんが、
 確かに、死と再生の神オシリスと、また、太陽神であるラーとは特に強く関連して描かれ、
 彼らの魂(バー)であるという表現も、よく見られました。

 アオサギは水鳥であるので、
 ナイルの増水期になるとやってきて、水が引くとまたどこかへ去る、という習性があったと思われ、
 毎年繰り返されることに、彼らの生死観……繰り返される生と死、
 そして、朝生まれ夜死ぬことを、毎日繰り返す太陽神の信仰と、結び付けられたのではと考えられています。
 ベヌウの性質は基本的に、生まれ出た太陽を象徴したようですが、
 後世になると、太陽神そのものを表すようになったようで、
 太陽神の持つ、「生死の繰り返し」が、そっくりベヌウの性質として知られるようになります。


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<スフィンクス>      ▲ページトップへ▲
 
 エジプトといえば、
 ピラミッドと並んで、このスフィンクスが有名ですよね。
 スフィンクスとは、ギリシャ語だし、ギリシャのお話に出てきますね。
 ただ、そちらは、女性の顔をした、羽のあるライオンですが、
 古代エジプトのスフィンクスは、ほとんどが顔が男性、身体はライオンで、羽はありません。
 男性というか、これはもう、王様です。王様専用の頭巾を被り、立派なひげがついていましたから。
 有名なものは、ギザの大きなスフィンクスですが、
 他にも、神殿の参道にずらっと並んだり、たくさん作られていました。
 頭が牡羊のものもあります。

 古代エジプトで、それは、
 『シェセプ・アンク』とよばれ、生きた像、という意味でした。
 ライオンは、古代エジプトでも、強い力の象徴で、
 とりわけ、その力で「守り」を表すことが、多かったようです。
 ライオンと王の関わりは、その力強さを表すという点で、古くからありましたが、
 それ以外にも、太陽信仰と関わりがあったのではないかと言われています。
 たとえば、太陽の出で沈む地平線を表す神が、スフィンクスと似たような座り方をした二頭のライオンであったり、
 地平線のホルスと呼ばれる神が、ライオンの姿をしていて、昇る太陽を表していたり。
 ただ、それらの神とスフィンクスが、直接関係があったとは言い切れないところです。

 はっきりしているのは、
 その顔は王のものであり、
 王の持っている力を表現したものの一つである、ということです。


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<王様の名前>      ▲ページトップへ▲

 古代エジプトに興味を持てば、
 いくつかの、王様の名前を耳にしますよね。
 クフ、ラムセス、ツタンカーメン……。

 王様は、私たち庶民と違って、たくさんの名前を持っていました。
 そのうち、「誕生名」と呼ばれるものと、「即位名」と呼ばれるものは、
 カルトゥ−シュと呼ばれる、長い輪っかの中に書かれます。
第4王朝、ピラミッド・テキストが有名な王、ウナス。
 この輪っかは、遺跡や博物館などで、よく目にすると思います。
 ただ、名前はそれだけでなく、
 「ホルス名」という、セレクと呼ばれる四角い枠(宮殿を表したそうです)の中に書かれているものもあったし、
 輪っかに囲まれていないのもあったり……。
 また、いくつか名前を途中で変えることもあったそうです。

 初期王朝からしばらくは、
 ホルス名として、セレクの中で、王の名前を表していました。
 というのはもちろん、
 古代エジプトを始めに統一した王が、ホルス神を祀る地方(上エジプト)の出身であり、
 王自身が、このホルス神の化身である、とされていたからです。
(下エジプト出身らしい王もおり、その王はホルス神ではなく、セト神をセレクの上に描いていました)
 このころはまだ、カルトゥーシュはありませんが、
 上下、二つの国を支配する王である、ということを示すために、
 上下の王国を象徴するものを並べて掲げ、その下に名前や称号などを書く事がありました。

 そのうちの、スゲとミツバチを二国の象徴として、
 その下にカルトゥーシュを描き、名前を囲むようになったのは、
 古王国時代の中ごろ。

 これは、「即位名」として、以降ずっと使われ続けます。
 即位名は、『ネスウト・ビティ名』とも言われ、
 第4王朝に定着し始めたようです。
 ただし、ホルス名が失われたわけではなく、
 歴史を通じてずっと、王の名前の一つとして表されているようです。

 次の、第5王朝には、「誕生名」が見られます。
 この、誕生名は、『サァ・ラー』と読み、太陽神ラーの息子、と言う意味があります。
 ホルス神という、神そのものであった王が、太陽神の「息子」という表現になったことを、
 王権の弱体化の証拠と見る事が多いようです。
 ほとんどの名前に意味がありますが、
 この誕生名は、時々、音の響きだけを表して、意味がないと思われるものもあるので、
 一般に知られる名前は、だいたいがこの、誕生名のほうです。

 その他、王の名前を表すものとして、
 ネブティ名……二人の女神、の意。上エジプトのネクベト女神と、下エジプトのウワジェト女神。
 黄金のホルス名……黄金を表すヒエログリフの上にホルス神がとまっているもの。
 などがあります。
 ただし、全ての王様が、全部の名前をもっているわけではありません。
 本などで紹介されるときは、誕生名と即位名となる事が多いようです。

 また、王の名、特に誕生名には、
 自分の崇める神の名前がつく事が多く、
 即位名については、国家神である太陽神ラーの名前が、ほとんどの場合、入っていたようです。


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