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Higuma Haruoの覗き見の部屋/Peek
 
川崎市岡本太郎美術館・Peek/2004年
川崎市岡本太郎美術館での「水の記憶・ヒグマ春夫の映像試論」に「覗き見の部屋」をインスタレーションする。 テヘラン現代美術館での「The Shining Sun 」に「peek」をインスタレーションする。
    

『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・・・・
  次元移動の装置として』あるいは自己言及のアート
 

 デュシャンの「遺作」つまり『1.落ちた水、2.照明用ガス、が与えられたとせよ』は、「大ガラス」つまり『 花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも』の三次元ヴァージョンだと思われれる。「大ガラス」が、《花嫁はその独身者たちによって裸にされて、さえも》なるものの二次元的提示であるのに対して。もっとも、観客の行 為を見て言えば、観客が遠近法でできた二次元平面を見るときに、三次元のものの転写を見ていると言える。そうであれば、原理的には、観客が三次元のものを見るとき四次元のものの転写を見ているとも言える。
 しかし、『ヒグマ春夫の覗きみの部屋・・・・・・次元移動の装置として』は、これを逆転するかように見える。 覗き見の小穴から奥を覗くと、オーロラのような極薄のヴェールは揺れその奥でダンスがエロティックに踊られてい るのだが、どうも奥行きが欠落していて二次元的にしか見えないのである。デュシャンがエロティスムは三次元から 四次元へ次元移動するとき蝶番のような役割を果たすというが、ヒグマの場合が、これが逆になっているように 見える。なぜだろうか。
 ヒグマの場合、おそらく、覗き見るものにとってはその内部が逆光で照明されているため、ヴェールが二次元的に しか見えないだけでなく、その奥のダンスも二次元化してしか見えないのだろう。そうであるならば、ヒグマは、カ メラ等の遠近法的機材を用いずに三次元的振る舞いを三次元において二次元的に捉えたことになる。いったいこれを どう考えればよいのだろうか。アートとは、さらにはわれわれが見る世界とは、あるいは「われわれ」という世界が 、一種の表象でしかないと言っているのだろうか。そうであれば、ヒグマのアートは、きわめて自己言及的なアート というべきだろうか。 (広域芸術論、北山研二)