back Visual-Paradigm / Higuma Haruo
HIGUMA HARUO(映像・美術)
映像は何が写っているかでその意味が問われるが、映像が関わって生まれる空間にも興味があって、その可能性を実践して見たいと思っている。そう考えて始めたのが「映像パラダイムシフト」だった。「映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか」08年5月〜09年6月まで、毎月1回1年間、ソロ形式で追究してみた。映像はプロジェクターの光源を始発点として、到達点までの間に光の粒子が浮遊している。その粒子にオブジェを接すると、映像を立体的に感じることができる。またオブジェで映像をさえぎったりすると、影と映像との微妙なコントラストが身体を誘いこむ。変形するスクリーンで粒子をすくうと、映像が次元移動を始めたかのような錯覚に出会う。これは視覚のズレによるものだが不思議な現象である。今は異なるアーティストを招いて変容する舞台づくりを試みている。
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vol.19  チラシ

「映像パラダイムシフト」は、映像とはいったい何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、 といったようなことを追究しています。

ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト -空気の共有-

   Vol.19 都市 ゲスト 加藤チャーリー千晴(ヴァイオリン奏者)

日時:2010年3月16日(火曜日) 開場:19:30 開演:20:00 2.000円
会場:キッド・アイラック・アート・ホール
   電話:03-3322-5564
   井の頭線、京王線「明大前」駅(下車徒歩2分)地図
加藤チャーリー千晴(ヴァイオリン)
東京に生まれる。小学生の頃から即興を始める。国立音大卒。多数の演劇とダンスの音楽を制作、演奏。奇数月第三木曜日に武蔵小金井アートランドでIn the Mistsというコンサートを主催。静寂の中の音、音が音として発生する直前の現象に興味を持つ。
写真を加工する。カラーの写真をモノクロにする。写真と写真を重ねる。写真に色を付ける。こんな作業の繰り返しやフィードバックでイメージは新たな光へとよみがえる。だが記憶は残っていて、写真を線で描写すると線が動きとなる。再びその線描写と写真を重ねると、写真だけでは気が付かなかった写っているモノが見える。都市をテーマにした映像はこんな作業で制作している。
vol.18
ビデオ編集は、2台のビデオデッキを並べて、再生から録画へという流れの繰り返しだった。その過程にテロッパーやエフェクターの器械を入れることもあるが基本的には変らない。暑い編集室ではテープが伸びてヘッドに巻き付くことがある。何回も繰り返すとテープにキズができて最初からやり直しになる。やり直すということは、同じことを繰り返すということとは違って記憶の再現である。この作業はとても疲れる。なぜ疲れるかというと、記憶の再現にズレが生じるからだ。
Vol.17
制作メモ:最初「人魚」みたいに、半身は人の形をし、半身は魚みたいな、不思議な生き物を想定した。力を感じ歯車が浮かんだ。歯車が結合し空間をさまよう。動物の顔がメタモルフォーゼする。
Vol.16
工藤丈輝氏とは、アスベスト館の元藤さんが健在の頃、元藤さんの作品で一緒したことがある。たぶん同志社大の講堂だったとおもう。そのとき白塗りの身体に映像を投影した。特に記憶に残っているのは、舞踏手を写し即プロジェクターで舞踏手に投影する。まあリアルタイムの同時性ということになるのだが、生の身体と映像化された身体が舞踏手の身体で対照化され、一層リアルな身体に出会った思いがした。そのことがあって機会があればもう一度一緒してみたいと思っていた。
Vol.15
優しい光がさしている。枯れ葉が散らばっている。ススキが揺らいでいる。オブジェが自然に同化している。鏡の家は周りを写し込んでいる。一枚の枯れ葉が舞い降りてきた。雫は落ちていなかった。蝉は鳴いていなかった。畑は静まりかえっていた。草が伸びていた。人影がまばらだった。蚊に刺されなかった。スズメバチはいなかった。へびは見なかった。カエルも見なかった。桐はそびえていた。相変わらず雨は降った。鉢はよく雨が降る。夏にこの場所にいた。
写真を撮ることや。杭を打ち込むことや。ビンを取り付けることや。水滴装置に水を入れることなど。山ほど仕事があった。その度に傘をさしていたような気がする。夏には何回も草刈りをしているのを見た。植物の伸びが早かった。
誠司さんは言った。右の蛇口は水道水だけど左の蛇口は湧き水だと。湧き水は冷たかった。肌触りがよかった。風がさわやかだった。カーテンが揺らいでいた。アブには好かれた。
Vol.14
 
Vol.13
「空気をけずる」から「空気の共有」へ。モノを削っていくと小さくなったり細くなったりする。細くなったジャコメッティの彫刻は好きだ。モノを削るとは引き算をするようなもので段々少なくなる。だが、「空気をけずる」とは、少なくなることではなく、けずればけずるほど大きくなる。ここ1年意識的に空気をけずった。その空間はとても魅力的だった。
Vol.12おどってみて
毎月1回の映像パラダイムも1年が過ぎた。毎月ちがったアイディアを考えるのは大変であった。映像パラダイムが終わると直ぐに次の映像パラダイムを考えていた。考えはふと頭に浮かぶことでよかった。キワードは公園の散歩。公園は朝日がまぶしかったり、木々の臭いが漂っていたり、小鳥が鳴いていたりする立体的な空間がある。浮かんだアイディアをメモにしていた。いつも五感の覚醒ということを念頭に進化の途上でありたいと考えている。
Vol.11かいてみる
同じモノを作るという行程を通して起こる表現の可能性について。雑誌に載っている名画をスキャンした。不思議と本物そっくりにスキャンできる。スキャンした画面をよく見るとオリジナルとそっくりで美しい。その画像データをプリントすると、コンピュータ上の画像とはいくぶん違う質感がある。質感はプリンターの機種や性能、それに紙質や染料によっても違う。プリントした写真を着色する。着色した写真をコピーし再び着色する。この繰り返しで新たなオリジナルが生まれる。
Vol.10かこまれて
光の記憶は、残像の記憶ということかもしれない。目の奥に焼き付いた残像は、希望の星だったり悲しみだったりする。決して一般的ではなく固有の実体感である。強い光は決して目には優しくないが、身体が発する固有の光は希望と勇気をあたえる。身体パフォーマンスはその一つの現れである。
Vol.9ゆがんでみた
映像と生な身体、生な身体と映像化された身体は、映像を使ったリアルタイムの表現にはよくあらわれる。この二つの「事」を同時にみえるようにする。映像を使って画面を描きながら、「見る身体は見られている」という関係をつくる。「描かれた画面から感じられるものはなにか」ということと、「描いている自身は撮られ映されている」ということとの関係。
Vol.8いんせきのあとで
 
Vol.7せなかあわせなサイ

 
Vol.6うかんでいたような
自身の生な身体が映像化されたことによって、生な身体のリアルティー性が薄められ、映像と実体とのネジレ現象が表れる。ネジレ現象は映像の皮膜化であり、等身大以上の映像化である。
Vol.5おもったこと、あったこと
「映像パラダイム」は、映像とは一体何だろう、映像が関わるとどんなことが可能になるのだろうか、といったようなことを少し深く追求することを目的に、パフォーマンス的な手法を取り入れている。ここでいうパフォーマンス的手法とは、カメラやプロジェクターを操作する身体だったり、映しだされた映像と関係を持つ身体だったりする。あえてパフォーマンス的手法としたのは視る観られる関係として身体を捉えようとしているからだ。
Vol.4いってみて
 
Vol.3うるおったあとで
 
Vol.2ちかくでよんでみる

 

2枚の写真を並べることを約束事とし、身近なモノを撮った。それぞれの写真には関係はない。「ほんやらどう」の写真は、十日町の雪祭りである。雪下ろしをした屋根が一晩で1メートルも積もる。初めての経験だった。雪の中での餅つきは美味しかった。ほんやらどうで飲んだお酒は格別だった。積んだばかりの雪で焼酎を飲みたかった。真っ白い雪は汚染されている。地球環境は危うい。ルーブル美術館で出会ったヤンファーブルの宗教絵画とのコラボレーションに感銘した。
Vol.1落花水・思索
水滴がゆっくり落ちる様子を見ていると、永い時間を感じたり、せわしく動く自分がいたり、宇宙を感じたりする。その雫で水面は確かに揺らいでいる。だがゆらぎをつつむ空気は、わたしの目には見えない。投影する映像は空気みたいで、到達点しか映らない。だが、出発点と到達点の間には無数の光の粒子がある。
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