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   rewind Water Moon 2004/川崎市岡本太郎美術館・水の記憶・ヒグマ春夫の映像試論




まる○


Water Moon 2004
川崎市岡本太郎美術館
Water Monn 2004-9
AKBank
Culture Art Center

Water Moon 2005
テヘラン現代美術館
Water Moon 2004.9
釜山市立美術館

Water Monn 1999-2000
  「Water Moon 2004」は、川崎市岡本太郎美術館で発表したインスタレーションである。月をイメージした映像と水をイメージした映像の二種類が、二枚の円形のスクリー ンを透過して床で重なり映る。床にはアクリルプールが置いてあり、そのプールには15秒間隔で水滴が落ちている。実際には。プールの波紋と月と水のイメー ジ映像が重なって見える。観客の反応を観察して見ると、面白がっている幾つかの現象がわかる。一つは、アクリルプールに水滴が落ち波紋が拡がる瞬間であ る。二つ目は、投射されている月と水の映像がアクリルプールの波紋と重なることである。三つ目は、身体オブジェがアクリルプールの下に居るときである。ま た、この作品は、観る人の視点によって、さまざまな体験の仕方があることも確認した。この作品は、単なるインスタレーションに留まらず、素朴なインターラ クティブの要素を孕み持っている。

川崎市岡本太郎美術館/撮影:荒川昭男

川崎市岡本太郎美術館/撮影:荒川昭男

 2004年イスタンブールのAKBank Culture Art Centerで、日本作家紹介のグループ展があり「Water Moon2004.9」を展示した。この作品は「Water Moon1999-2004」の延長線上で考えているので構造的にも似ている。違うところといえば、チエシメの水を水滴に使い、ボスポラス海峡の海水を月のサイクルを表す写真の上に置いたことである。
 2004年〜2005年にかけて、テヘラン現代美術館で、日本作家紹介のグループ展があり、「Water Moon」「Difference」「Memory of Water」「Peek」の4 点の作品を展示した。その中の「Water Moon」は、構造的には「Water Moon 2004」「Water Moon 2004.9」と似ているのだが、月と水のイメージ映像が重なるところに、100個のコップを置きカイワレ大根を発芽するようにしたところが違う。日々成 長してくるカイワレ大根は、日々インスタレーションを観ることを示唆する。


 Water Moonは、わたしと不動まゆうがフィールドワークを繰り返しながら創りあげることを目的に、1999年から進めているプロジェクトである。その創造の源点は、「Water Moon」を地球に一番ちかい星として想定したことである。勿論、架空の星であり現実には「Water Moon」という星は存在しない。しかし二人のコミュニケーションがネットに依存していることを見れば、脳内に「Water Moon」という星が存在しているともいえる。
 二人は「Water Moon」という星に住んでいる。二人のコミュニケーションはネットで行われている。そしてその星でつくりだされた、形や様式を人間の住む地球上で具現化させたいと願っている。
 現実に二人は「Water Moon」という架空の星と「地球」との間で矛盾をひき起こすことになる。それは「Water Moon」が脳内住居であるにも関わらず現実とオーバラップする局面と遭遇するからである。現実には自然な世界でフィールドワークを行っているのだが、 「Water Moon」で行われているのではないかと錯覚してしまうことがある。なぜかというと二人はネット上でイメージのやり取りを積み重ねながら、具体的なイメー ジを構築しているからである。そのため現実のフィールドワークの最中にイメージが現実化し、二つの世界が錯綜する。これはコラボレーションとしては理想の 形体かも知れない。
 Water Moonを架空の星として、そこでの共通テーマを「水と月」に限定した。理由として、一つ目は、水は触れられる自然の存在であり、月は眺める自然の存在で あるということ。二つ目は、月が女性と見立てられることである。三つ目は月も水も極めて人間に近い存在として認識することができるからである。
 水と月について考えを深めていくとさまざまなことが見えてくる。人間のカラダの大半は水分で出来ているということ。潮の満ち引きと女性のカラダとの関係。水の汚染と環境問題。穀物の収穫と陰暦等々さまざまなことが浮かび上がってくる。
 地球上で最初に具現化した作品は、「Water Moon」というパフォーマンスだった。このパフォーマンスは、二つの視点で捉えている。「誕生から死へ」と「死から誕生へ」という回路である。このこと は、ビデオのシステムを取り入れると解りやすいのだが、「誕生」が再生であり、「死」巻き戻しということになる。
 パフォーマンスの準備段階で、フィールドワークを繰り返した。そこは、海や河原それに公園等だったりした。フィールドワークには常にビデオカメラを持ち 込みフィードバックを試みた。フィードバックとは、自然の中で身体事をしている様を常に撮らえ、後でその映像を観るということだった。この繰り返しで浮か び上がってくるものがある。それは身体事が洗練されてくるということ。自然と身体の同化を感じるということ。音が構成する空間を感じるということ。自然の 動きを身体で記憶するということなどである。
 結局フィールドワークは、脳内住居からの自然復帰かも知れないし、究極的にパフォーマンスは、脳内化した身体の自然回帰かも知れない。現に、都市と自然を相対化してみると、都市は、人工物で構成され脳内化しているといえなくもない。
 何度かパフォーマンスを続け、フィールドワークを繰り返しているうちに、エロス的概念が加わってきた。エロスが加わってきた背景には、自然はエロスであ るという観念を体験したことが大きい。月にエロスを感じ、生な身体と映像化された身体、虚像としての映像と実像としての身体、このような狭間にもエロスを 感じる。
 「Water Moon」は、終局的には身体、映像、音楽の融合的可能性の追求であり、映像が関係する身体の探究であると同時に総合芸術の追求でもある。