9》漂流

徴兵検査で落とされそうになったにもかかわらず、昭和17年、日本軍では初めて編成された戦車機甲師団に配属されることになったのは、ウハチさんに電気の技術があったからでした。兵隊になる直前まで、関東配電株式会社(後の東京電力)の社員だったのです。

戦車は、「砲兵が一人、電気や計器をいじれる兵隊、操縦をする兵隊の三人で乗りこむんだ」ということですから、ウハチさんは機械の整備を専門としていたのでしょう。  家に残されていた戦友会の資料の中に、「耐寒力調査、足立隊」という一枚の手書きの書類のコピーを見つけました。100名ほどの兵隊の評価を書き付けたものでした。ウハチさんの評価は「強兵」と書かれています。その下が「中兵」で、さらに下が「弱兵」になっています。階級は「上等兵」でまだ訓練中の時期のようですが、日付が昭和18年12月22日とあります。文字がかすれていて読みにくいのですが、「凍結標準時間4分」、これは水が凍るまでの時間のことでしょう。指先が凍りそうなのを堪えて「足立隊舎前」でキオツケの姿勢で立っているウハチさんの姿が浮かんできます。

しかしウハチさん本人から聞かされた満州の話は、
「軍用トラックの排気口に鉄でこさえた箱を取り付けたんだよ。その中に弁当を入れておくと昼にはほかほかになるんだよ。芋もよく焼いたよ。中に入れておけば、向こうに着く頃にはちょうどいい具合に焼き上がってるんだよ。おれたちの車だけで内緒にやってたんだけどね、他の班はコチコチに凍った弁当を食べてたんだ」と、自分のアイデアを愉快そうに話すのでした。

戦車第二師団が極秘の命令を受けて、満州からフィリピンに移動を開始したのが昭和19年8月です。終戦の1年前、かなり戦局が厳しくなってきた頃で、本土決戦をいかに引き延ばせるかがウハチさんたちが担っていた任務だったのでした。記録では4つの船団に分かれて海を渡ったのですが、最初に出発した船が台湾沖で沈没してしまいます。

ウハチさんも海に放り出されてしまったそうです。
「すぐ近くに浮いていた板きれにつかまったよ。そのうちに手にだんだん力が入らなくなってきてね、このまま死ぬのかと思ったよ」それは真夜中のことだったのです。しかも海が荒れていたということもあり、兵隊たちも広い範囲に流されてしまいます。救助船がやってきたのは3日後だったのですが、
「将校だけ助けて行ってしまったよ。あいつらひどいんだ。漂流している時だって、自分らだけ大きな板の上に座っていて、つかまろうとする兵隊がいると軍刀の柄で手を叩いて振り落としていたよ」と、特定の顔を思い浮かべている様子なのです。ずいぶん漂流した後にやっと、台湾の漁師の舟に助けてもらったそうです。

最初の部隊が釜山港を出航してから、最後の部隊がフィリピンに上陸し終わるまで100日もかかったと記録にはありますから、日本のまわりの海はもう無事には航行できない状態だったのでした。