32》ラムット川右岸の殺戮

しかしラムット川の向こう岸には、まだ中隊のトラックが1台取り残されていました。最後尾を走っていた燃料を積んだトラックの到着が遅れていたのです。ミウラ曹長を連絡係として向こう岸に残しておいて、アダチ中隊の車両部隊は先を急ぎました。雨の日は敵機が飛んでこないのが分っているので、少しでも前進しておきたかったのです。草原の広がる丘陵を一気に上り、やっと樹林のある最初の部落に着きました。そして久しぶりに原住民の住居のバハイでゆっくり休ませてもらったそうです。

夕方になってキャタピラ式のトラックに乗って遅れている隊員を迎えに行ったアダチ中隊長は、橋が流されているのを見て愕然としたそうです。濁流が渦を巻いて流れているラムット川の向こう岸には、自分の部下だけではなく、まだたくさんの兵隊や避難する人たちが取り残されたままだったのですから。

翌日6月9日は雨もすっかり上がり晴天でしたが、そういう日には必ずアメリカ軍機が飛んでくるのです。道路に取り残されたトラックや逃げ遅れた荷車目がけて、10数機もの飛行機が飛んで来ては機銃掃射を繰り返して行きました。その先のサントドミンゴ峠でも土砂崩れがあって、そこでも渋滞していたのです。動きが取れなくなった車や、隠れるための樹林がないような場所にいる人々は、飛行機からの好目標になったのでした。

この同じ日に、アメリカ軍戦車の地上部隊もラムット川まで数キロのバカバックに侵攻してきました。しかしまだラムット川の岸辺には、病気の兵隊や子ども連れの避難民がひしめきあっていたそうです。川の向こうに渡りさえすれば、山岳地帯に逃げ込めると思っていたからです。川の周辺は草原が広がっていました。隠れる場所も逃げ場もない人たちの群れに向かってM4戦車が縦横に走り抜け、そして踏みつぶしたそうです。空からの機銃掃射も草原を駆け巡りました。

ウハチさんはこの話はしてくれませんでした。ウハチさんの本棚に残されていた資料の中に見つけたのです。「戦車第二師団整備隊の戦記」に牧清さんが詳しく書いていました。そこには「米軍戦史にはカットされている事件が起きた」と、書き始められています。牧さんは整備第二中隊の少尉でした。整備隊は、ラムット川仮橋が流される5日前に通過することができたので助かったのですが、「生き残ったものが他界すれば、自然に忘れ去られる悲惨なことである」と、この話を結んでいます。

もうウハチさんがいないリビングでわたしが指し示したページを読み終わった夫が、
「これは快楽殺人だね。戦争には必ずこういうことが起きるんだ」とつぶやきました。
「でもこんなこと、命令でやるんだろうか」と、思ったまま口に出したのですが、飛行機も飛び大きなM4戦車が動くのには、それなりの統率がとれていなければできないはずだとも思うのです。

また別の戦友会の記録の中には、塹壕の中で電話通信をしながら、片手に持った写真を眺めて泣いている若いアメリカ兵のことが書いてありました。斬り込みに行った時に隠れながら見たのだそうです。「家族の写真を見ていたのだろう」と書いてありましたが、わたしには恋人の写真のように思えるのです。サラクサク峠の戦闘では、アメリカ軍にも相当の戦死者が出ました。対空遮蔽をする必要のないアメリカ軍の塹壕はただ穴を掘っただけの簡単なもので、穴の底には防水加工した段ボールが幾重にも敷き詰められていたそうです。斬り込みで襲撃されたアメリカ軍の陣地のタコ壷の底には、たくさんの家族や恋人からの手紙や写真が散乱していたと言います。

軍隊という組織が動き出すと、戦い方のルールもなくなって、人の感情もすっかり変わってしまうもののようなのです。