33》軍直轄からの解放

アダチ中隊がやっとキャンガンに着いたのが6月15日ですが、撃兵団(げきへいだん)の本隊はサリナスで戦闘中でアンチポロへの転進命令もまだ出ていませんでした。『撃』のどの部隊よりも早く北方に移動してしまったウハチさんたちは、まずキャンガンにあった派遣班に向かいました。そこに軍司令部の参謀がいていろいろと指示をしていたのです。

早速アダチ中隊長は、独自に転進してきた中隊の状況を報告に行きました。そこにいたカワセ参謀から、ちょうど良いところに来たとでも言うように、軍直轄になるよう命令を受けます。ファームスクールの野戦倉庫に積まれたままの塩と食料をキャンガンまで運ぶ任務です。キャンガンまでの20キロは車で、そこから先は車が入れない細い山道なので人力で担ぎ上げました。

輜重隊(しちょうたい)の兵隊たちに混じって配属された人足に、高砂族(たかさごぞく)の男たちがいました。「軍夫」として台湾で徴用された彼らは、険しい山道でも軽い足取りで歩いていたそうです。台湾の山岳民族がルソン島まで連れて来られて働いていたのでした。

アダチ中隊の無線機はまだ機能していましたから、軍直轄になってもサリナスの輜重隊本部とはいつも無線交信できていたのです。アダチ中隊長は本隊の動きをいつも把握していたのでしょう。アダチさんの頭の中には、早く『撃兵団』に戻らなければという思いがありました。

6月20日いつものように通信していると、伝令係が軍司令部からの命令文を持って帰ってきました。中隊の無線機を使って『撃兵団』へ打電するようにとのことでした。傍受を恐れてのことだったのかもしれませんが、もう司令部同士の連絡網も寸断されていたのかもしれません。アンチポロへの転進命令はアダチ中隊の無線機で伝えられたのでした。
「アダチ中隊長は塩の輸送がぜんぶ終わってから参謀に掛け合ってくれたんだ。
アンチポロに集結する部隊に復帰させてくれってね。
おかげで助かったよ。あのままキャンガンの谷に入っていたらもっとひどい目に遭っていた」
ひとりの中隊長にはどうにもならない上からの軍務命令なのですが、わずかの隙間を狙って行動しているのが記録を読むと分かるのです。司令部の周辺が安全だとは限らないのでした。
「軍の司令部には最後まで食料はあったかもしれないけれど、あの谷はアンチポロよりもっとひどかったんだよ」

記録や文献に残された資料を読むと、たくさんの避難する在留邦人がキャンガンの奥のアシン渓谷に入り込んで行ったのです。ただ険しい山道が続くだけで、食料もなく雨露をしのぐ家もほとんどないような厳しい山岳地帯でした。それでもひたすら十四方面軍司令部があるはずの山奥を目指して歩いていったのですが、途中で飢えて亡くなったり、病気で倒れたりした老人や女性や子どもがたくさんいたのです。

しかしそこは軍の庇護どころか、辺りには遊兵と呼ばれる前線から離脱した兵隊たちがいて、彼らも行き場のない荒んだぎりぎりの状態で生きていたのでした。