35》南方春菊

「撃兵団」の主力が北アンチポロに着いたのが7月8日です。塩を担いでの山岳転進をした輜重隊(しちょうたい)は、さらに遅れて7月の末にやっと南アンチポロに到達しました。しかしもっとも遅く到着した部隊がありました。輜重隊のミヤニシ中隊です。もう終戦も近い8月13日まで山の中を歩き続けていたそうです。このミヤニシ中隊長は、サラクサク峠のイムガン集積所が爆撃される前夜に輜重隊全員を危機一髪で脱出させた人です。サリナスを撤収するときにも最後まで残って、運べない武器や弾薬を爆破処理してから山に踏み込んだのです。

ミヤニシ隊だった金井政友氏の手記には、アンチポロまでの過酷な体験が書かれていました。
ミヤニシ中隊はすぐにアンチポロに向かわずに、まず進路を西に取ったそうです。隊長の考えでは、ゲリラ作戦を立てて独自に戦い続けるつもりだったようですが、部下の兵隊たちの様子を見て諦めたのだそうです。疲れきって口をきこうともしない兵隊たちは、休憩のあと出発の号令をかけても誰も立ち上がろうともしません。隊長が杖で叩いて、
「ここに残ると死んでしまう」と叱りつけて動かしていたそうです。
朝、脚絆を巻き直そうとして解くと、血を吸った山ヒルがころころと落ちたこと、シャツの縫い目にシラミが列をなしてくっ付いていたこと、永い間の行軍でも何とか生き残っていた人たちでさえ、皮膚が赤くただれたり腫れたり下痢になったりもしていました。

7月の半ばになって、アメリカ軍機がビラを空から撒いていくようになりました。「今からでも遅くはない」という書き出しや、収容所で優遇されている日本兵の写真入りなどもあったそうです。しかし誰も相手にせずに、煙草の巻き紙にしたり、炊事の焚き付けにしていたそうです。米は一粒も浮かんでいない鍋の中身は、イゴロット族の芋畑から手に入れたわずかな甘藷と、春菊に良く似た雑草でした。この雑草のことを兵隊たちは、「ナンポウシュンギク」と呼んでいたそうです。しかしこの野草も決しておいしいものではなかったようです。消化されずにそのまま出てしまっていたと書いている人もいましたから。

アンチポロに着いたどの部隊も消耗しきっていたのですが、それでも方面軍司令部は「撃兵団」のアンチポロ到着の知らせにたいへん喜んでいたそうです。ぼろぼろだとは言え、「撃」がまだ戦力を保持して再集結できたことや、イゴロット族の棚田を占拠して食糧確保も達成しつつあるのを知って気を強くしたのでしょう。ヤマシタ大将は自らの名で、「感状」まで出しています。昭和20年7月23日の日付です。