37》アシン渓谷の在留邦人

アシン渓谷に逃げ込んだ在留邦人は2000人ほどでしたが、その人たちのほとんどが日本軍がルソン島に上陸する前の、アメリカ領の時代から暮らしていたのです。もうすっかりフィリピンの生活にとけ込んでいたはずの人たちが、どうして日本軍といっしょに敗走しなければならなかったのかと思ってしまいます。

在留邦人の人たちは最初は皆いっしょに避難したそうです。それまで住んでいた家も築き上げた財産も、小さな荷車には乗せられません。やがて車も通れない山道になったので、さらに荷物を減らさなければなりませんでした。避難生活が長引くにつれて、老人からだんだん亡くなって行きました。子供だけが残されていたりしたそうです。

「ルソン戦記ベンゲット道」(高木俊朗著)のなかに在留日本人の家族の凄惨な逃避行のことが出ています。逃げるのに着の身着のままのワンピース姿の奥さんが、山中を彷徨っているうちに夫を失い、可愛い女の子を二人連れて密林の中の小屋で、チョコレートの空き缶で蛙と雑草を煮て食いつないでいた、やがてこの人も病に倒れ、二人の女の子が母の死を看取るという場面を読むと、ウハチさんの話しには出て来ない戦争の裏側の出来事に胸が塞いでしまいます。

フィリピンはずっとスペインの植民地だったのが、1898年にアメリカに売却されたのです。国が売りに出されるということにも驚いてしまいますが、そういう交渉を自分に有利に進めるためにいつも戦争をしているようです。ちょうどその頃に、日本人の労働者がルソン島に渡ったのでした。ルソン島の「ベンゲット道」の開通までにはたくさんの犠牲者が出たそうです。あまりにも過酷で危険なのでとても無理だと思われたのですが、日本人ならできるということで呼び寄せられたのでした。そして開通した時は皆抱き合って喜んだのだそうです。

その後そのまま住み着いたその人たちが家庭を築きやっと安定して来た頃の1942年に、今度は日本軍がフィリピンに上陸したのです。日本の占領はわずか数年のことですが、ルソン島に住んでいた日本人の生活は大きく揺さぶられたのに違いありません。彼らの息子たちも現地召集されました。移住しているとは言っても、日本人としての誇りはいつまでも持ち続けていたのです。しかし8割以上の戦死者を出しているのですから、この青年たちもほとんど生きて帰っては来ませんでした。