41》首実検

カンルバンの捕虜は、将官、将校、その他の3つの区画に分けられて収容されました。さらに周到にグループ分けされてもいたそうです。同じ部隊だった人間がひとつのテントに絶対にいっしょにならないようにするためです。そして各テントごとに代表を選ぶようにと言われました。作業班の編成や連絡や、食事の分配などをスムーズに行なうためですが、戦争は終わったのにどこのテントでも階級が高かった人を選んでいたそうです。

指揮官だった人たちには、部隊の名簿を作成するという重要な仕事がありました。アメリカ軍はこれからその名簿を元にして、ここに収容されているすべての日本兵を裁くことになるのです。捕虜収容所での尋問の様子を戦車第6聯隊だった松本正さんが記録(撃友会会報第26号)に残していました。

尋問される部屋に入ると10人の日系2世が机を前にして横にズラリと並んでいて、名前や所属部隊や入隊した時期、出身地や家族構成まで次々と聞いてきます。しかも同じ質問をとびとびに繰り返して来ます。彼らは他人に成り済ましている兵隊を探しているのでした。

やっと尋問が終わったと思い廊下に出ると、すぐ前に尋問を終えた人が、
「無事に答えられました」と、ホッとした様子で小声で話しかけてきました。しかし実はまだ先があったのです。出口近くの机の上に置いた椅子に座り、ガムを噛みながら足をブラブラさせている日系2世がいました。

前の人にまだ何も書かれていない尋問調書の用紙を3枚手渡すと、
「下の左下のネームと書いてあるところに名前を書きなさい」と彼は言いました。1枚目に「川島三蔵」と書いた紙を手を伸ばして受け取りながら、
「2枚目も同じように書きなさい」と言い、その人が「川島」とまで書いたときに、
「川島さんですね」と呼びかけたのです。するとその人は一瞬遅れて、慌てて顔を上げ、
「は、はい何ですか」と返事をし、お辞儀をしたということです。
「続けて書きなさい」3枚目を書き終わると、左の出口を指示されてその人は出ていきました。次の松本さんも2枚目を書き始めたときに、同じように声をかけられたのですが、下を向いたまま「はい」とすぐに答えてから頭を上げ、「何ですか」と聞き返したそうです。

同じように進行したようだったのですが、ふたりの出口は違っていました。松本さんは前の人が出て行ったのと同じ左の通路に向かおうとすると、彼は笑って、
「あなたはこちらから出なさい」と右の通路を指し示しました。

外に出ると、すでに尋問を終えた人たちが草原に3列に並んで待っていました。
「小隊長良かったですね」と、みんなに出迎えられたのです。何のことかと思っていると、彼らが目で示す方には厚く鉄条網で囲われた場所があって、その中で先ほどの人がこっちを見つめて泣いていました。

後で分かったことですが、その人は自分が憲兵隊の軍曹だったのを隠すために、戦死した人のことを同じテントの人から教えてもらいその人に成り済まそうとしていたのでした。憲兵隊は軍隊の中の警察のような存在で、現地では色々と乱暴なことをしていたようです。ゲリラ討伐と称してイゴロット族の村を襲撃したときも、憲兵隊が率先して行動していました。当然そのことで訴えられてもいたはずです。

松本さんは書いています。自分が工科学校ではなく憲兵学校に合格していれば、彼と同じ運命を辿ったのではないかと。わずか0.何秒かの反応の違いで判断したあの2世はただ者ではない、きっとアメリカの大学で心理学を専攻していたのではないかとも。