42》アメリカ軍属

カンルバン捕虜収容所での戦争犯罪の調査と尋問は1946年の4月頃まで続けられました。容疑者として収監された人やいまだに嫌疑が晴れずに収容所内に止められている人がいる一方で、他の人達は昼間は土木と農作業の班に別れて収容所の外に出て働き、夕方にまた戻ってくるという生活を送っていました。

ここまで来るともう皆の最大の関心事はただ一つ、いつ日本に帰ることが出来るかということだけでした。早い人は終戦から二ヶ月後に帰還していますが、最も遅い人は一年半後にやっと帰ることができたのです。乗船名簿が発表されてそこに自分の名を見つけて大喜びする人もあれば、がっくり肩を落とす人もいました。

同じ頃ウハチさんだけは全くちがう場所にいました。収容所の庭で声をかけてきた日系米兵の口利きで、電気技師として現地採用されていたのです。捕虜の服を脱いでアメリカ陸軍の服に着替え、発電所建設の仕事で毎日忙しく動き回っていたのでした。
「山のずっと上の方まで送電しても電圧が落ちないように大きな発電機をいくつも繋いで作ったんだよ。何度もテストを繰り返して、やっと使えるものが出来たときはうれしかったなあ」
元々関東配電の社員だった人ですから、発電に必要な機材を揃えたり設置するのが専門でもあり得意分野でもあったのです。その人の知識と技術のレベルがどのくらいのものかはいっしょに働いてみれば分かるものです。しばらくするとウハチさんはすっかり米兵たちにとけ込み、だんだん彼らに頼りにされるようにもなって行きました。

ウハチさんが食事をしていると通りがかった兵隊が声をかけてきました。
「お前の席はここじゃないよ。あっちに来いよ」ランチの皿を持った白人の兵隊でした。用心深いウハチさんは、いつもいっしょにチームを組んでいる黒人の兵隊たちと同じテーブルにいたのです。
「おれはここでいいよ」と断ったそうです。
「将校用の食堂ってのは別にあってメニューも違うのは分かるよ。でも同じ階級の兵隊が自分たちで黒と白に分かれるんだからなあ。初めて見たときは変な気がしたよ」

仕事の時間外では上官ともフランクに話している米兵たちの自由なものの考え方には感心したウハチさんも、その食堂の雰囲気にはすぐには馴染めませんでした。それでもここで生き延びるためには彼らの習慣を急いで覚えねばならないと思ったのです。