猶予の月 (いざよいのつき)

 

Eleanor_Kurohime


 夜降る雪は音もなく静かに、かつて地上に初めて降った雨であったことを回顧する。


 かつて人の体内に宿り、体中を駆け巡っていたことを。大気に溶け出し、空に浮かぶ雲になったことを。雨となり川を流れ、海の一部となったことを。

 そして、この大地を包み、あまねく世界を巡り、あらゆる生命に回帰する。

 だが、どこにでも回帰できるということは、どこにも帰る場所がないのと同じではないのだろうか。






 吸血鬼は窓の外を見ていた。ベッドに座り込んで自分に背を向けて、カーテンが開いたままの窓を見上げている。

 白いシャツを肩にはおり、何故か泣いているようにも見えて、しばらく声をかけるのをためらった。いつもなら、冷えるぞと腕に抱きこんで眠るところだ。

 振り返った吸血鬼は泣いてはいなかった。月の光のように冴え冴えとした静かな美貌がゆっくりと手を伸ばしてくる。

 おかしい。

 自分は目を開けてはいない筈だった。なのに何故回りの様子が見えるのだろうか。ああ、これは夢を自覚したまま寝ているんだなと思いあたり、それにしては妙に時間が緩慢に動いているような気がした。それとも吸血鬼の能力なのだろうか。しばらくそのまま動かずに吸血鬼が次にどうするのかを待った。

 彼の指は自分には触れなかった。唇をかんで少しためらうように、その手をもどす。

 その表情は知っていた。

 初めて彼に触れてから、ずっと自分に怯えているのだと思っていた。彼に触れるといつも、びくりと身を硬くする。何度肌を重ねてもそれは変わらない。それが妙に腹立たしく、殊更乱暴に扱うことが多かったのだが。

 彼が怯えていたのは、別の理由からだった。

……お前は平気なのか』

『何か?』

『私はこうして触れているだけで、お前の寿命を縮めているんだぞ』

 それこそが彼が吸血鬼たる所以だった。まさか、当の本人がそんなことを気にしているとは思わず、神父は驚いたことがある。

『再生者をなめるな。俺はそのために人間の技術で作り出された』

 精を吸い取られていないといえば嘘になる。だが、この化け物には必要なのだ。人間が生きるために、他の命を食料とするように。




 吸血鬼は気怠い気分で神父を見下ろしたまま、つい先程の熱を思い出していた。

 このまま一緒に死にたい。

 アンデルセン、もっと……。

 今すぐに二人で死にたい。

 ……アンデルセン。

 この腕の中で、小さな死を何度も味わった。それを祈ったのは初めてだった。初めて神に願ったのが、この男と死ぬ事か。

 吸血鬼は暗澹とした気分で、自嘲の笑みをもらした。

 神が人の願いを叶えた事はない。神を信じていた私にこんな仕打ちをする。永劫にその生き地獄をさまよえと、天国への門は閉ざされた。煉獄への道すらも。

 私がこの世界に残されたのは、ここが地獄よりも非道い場所だからだ。

 アンデルセン。

 お前を殺してもいい。

 お前に殺されてもいい。

 だが、お前は死んだらあの世へ行くんだろう。そんな神の思惑にはまるものか。いつの日か最後の審判さえ待たずに、私の身体も魂もチリとなって消え失せるだろう。ヤツのやり口は判っている。一度、与えておいて、それから永遠に奪い去るつもりか。私の手の届かないはるか彼方へと。

 神がお前を愛しているというならば、何故私たちを会わせたのだろう。どうしてこんな背徳の時間を許すのか。

 そして、アンデルセンは何故、私を殺さない?

 この男の思いは知っていた。アンデルセンの血とともに身体の中に流れ込んできた思いは茨のように絡みつき私を支配している。どうして。

 お前がどれほど私を憎んでいるかは知っている。そんな矛盾を抱えたまま、私を殺すためのその手で、何故私を抱けるんだ。お前も狂っているのか、アンデルセン。

 私と同じように。

 お前に触れられるのを嫌悪すると同時に、この温かい腕をいつまでも離したくはない。一緒にいたいと思いながらも、嬉々として殺しあう。



 大いなる矛盾だな。

 ああ、そうだ。狂っているな。

 一緒にいたいなら、その方法は知っている筈だ。

 良く知っている。簡単な事だ。

 そこで、無防備に首筋をさらけ出して眠っているじゃないか。

 莫迦な奴だ。

 血を吸ってみればいい。こいつが童貞かどうか判るぞ。

 どちらにせよ、化物になる事には変わりがあるまい。

 こいつを化物にしたくないのか。今でも十分化物だがな。

 私を倒すのは人間だ。

 まだそんな事を言っているのか。

 真理だろう。

 私は化物になってから、二度人間に倒された。だが、それがどうした。それで私は死ねたのか。

 ……確かに死んではいるが、まだここはこの世だろうな。

 あの婦警はどうだ。

 セラスか。

 お前は助けるために血を吸ったんだって?

 あいつが選んだ事だ。

 思いやりがあるな、吸血鬼。

 何が言いたい。

 笑わせるな。お前のした事は、単にこの世に化物を一匹増やしただけだ。

 あいつの自由意志だ。

 なら何故こいつに訊ねない。

 何を。

 お前の血を吸ってもいいかと。

 莫迦な事を。奴が承知するわけがなかろう。

 だから、訊いてみるだけだ。神父にも自由な選択をさせるがいい。それで、もし万が一……。



 世界が白熱した。

 太陽の光を眼窩から直接脳に叩き込まれたように、鋭い錐が突き刺さり吸血鬼の意識を灼いた。叫んだような気がするが、声は出ていない。

 拡散していた意識が重力に引かれて集まるように、あるものは消え、または沈黙し、吸血鬼という身体を形作るものの中に集約した。はるかな高みから現在という時間の中に。

 海の底に音もなく降る雪のように、静かに集まった意識が身体を動かす。

 吸血鬼は首筋に触れていた牙を離して口を閉じ、神父を起こさぬようにゆっくりと身を引いた。

 人の寝顔というのは、どうしてこうも無防備なのだろう。自分では決して見る事ができないからだろうか。このあどけない顔こそ、案外本当のお前なのかもしれないな。

 眠り続ける神父の姿をぼんやり見つめていると、その光景から徐々に色が抜け落ちていった。

 ごくまれに、自分の中にいる使い魔の眼を借りると世界はこんな風に見える。人間とも吸血鬼とも明らかに異なる色相と視野。ひどく歪んだ風景が、ゆっくりと赤一色で塗りつぶされてゆく。

 私とお前の見ているものは、こんなにも違うんだ、アンデルセン。

 そして。

 不意に神父が眼を見開いた。





 神父は彼の手首を掴むと、ゆっくりと身を起こした。手を強く引いて倒れ込む吸血鬼の顎に手をかける。

「何故、泣いている」

 思わず自分の頬に手を当てた吸血鬼は、赤く染まった指先を信じられないように見ていた。その指先を神父が口に含んで舐めた。

「お前の血の味がする」

 肩を抱き寄せ吸血鬼の頬に舌を這わせると、呆然としていた彼が我に返ったように抗った。

……いや」

「ならさっさと泣き止め」

 心臓に悪い。

 吸血鬼が血の涙を流すのは知っていた。だが、こいつのそれを見るのは初めてだった。だから錯覚するのかもしれない。人間のように透明な涙を流すこいつを見る度に、わずがだが化物である事を忘れる瞬間がある。

「だめだ、アンデルセン」

「どうして」

 眼を閉じて腕から逃れようとする彼の、白い頬を伝う涙を何度も舐めとる。涙は止まるどころか泉のように溢れてきた。

 お前に触れられていると止まらない。だから……。

「頼む、離してくれ……アンデルセン」

 彼の静かな願いに、神父はゆっくりとその手を離した。吸血鬼が両手で顔を覆い、低い嗚咽を漏らした。神父は行き場のない思いを潰すように、爪が食い込む程手を強く握りしめた。

 しばらくして何度も強く両目をこすり、彼が顔を上げた。瞳にはまだうっすらと血の膜が残っていたが、アンデルセンの顔を見るとはにかんだように少し笑ってみせた。

 思わず動いた身体をなんとか押さえつけ、神父は再び寝転んで彼に背を向けた。眼を閉じていても、吸血鬼の視線を感じた。

 永劫の時が一瞬にして流れさったかのような沈黙の後、吸血鬼が動いた。そろりと神父のとなりにもぐり込み、彼の背中に触れて頬を寄せた。

 悲しいのか。背中越しに神父が訊ねた。

 判らない。

 自分の事なのに。

 神父が小さく笑うと、目の前の大きな背中が揺れた。

 考えないから判らなくなるんだ。たまには自分の脳みそを使え。懺悔なら聞いてやるぞ。

 お前の本来の仕事だからな。

 吸血鬼もつられるように笑って、アンデルセンの腰に手を回す。神父は自分のそれを重ねて指を絡めた。

 私はここにいていいのかな。

 俺が許す。

 一言で切って捨てた神父の言葉がまるで子どものようだと思い、また彼らしいなと安堵する。

 でも、アンデルセン。お前の神は許さないだろう。私がお前とここにいる事を。

 現実をよく見ろ。

 現実?

 俺とお前はここにいる。

 うん。

 それでいいだろう。

 きっとそうなのだろう。今だけだ。今だけ。この静かな時間も。

 遠くない未来できっと私たちは引き裂かれるだろう。何によって? ……神か? 違う。たまたま二人の道が交わっているだけだ。二度と重なる事はない。そしてその先に続く道は、どちらか一本しか残らない。私の道か、お前の道か。

 お前にはここがちゃんと現実だという自覚があるんだな。

 お前にはないのか。

 私は少し長く生き過ぎたようだ。

 それじゃここは何処だと思う。

 そうだな。私はもう死んでいるんだ。だから死んで消え去るまでの長い夢の中にいるようだ。

 俺もお前の夢か。

 私がお前の夢かもしれないぞ、アンデルセン。お前が夢でも現実でも、私には大して変わりがないように感じられるんだ。

 神父の指の力が増して、吸血鬼の手を握りしめた。

 この腕も? 今お前がすがりついている背中もか。

 ……甘い夢だな、アンデルセン。

 闘っている時も、抱かれている時も。


 この時を夢だと言い切る吸血鬼が何故だか哀れで、神父は彼を抱きしめたい衝動に駆られた。だが、どんなに言葉を尽くしても、どれだけ自分の物にしたとしても、こいつの長い悪夢は終わらない。

 殺すしかないんだ。殺すしかない。

 こいつを滅ぼす。完膚なきまでに打ちのめし、二度とこの世に再生しないようにあの世へと送り込む。

 俺にできるだろうか。いや、俺にしかできない。

 それは絶対誰にも譲らない。それならお前を神にくれてやった方がまだましだ。






 アーサーが実際の年齢よりも、ずっと早く老いて死んだのは私のせいだ。化け物を飼いならすために、契約で吸血鬼を抱くというのはそういう事だ。そうまでして手なずけた化け物をろくに使役もせず、死んでしまうとは笑える話じゃないか。そして私を危険な存在だともてあましたあげく、閉じ込めるしか方法がなかったのも何とも愚かだ。人間というのはどうしようもない生物だと思わないか。


 そう言って、珍しく饒舌に過去の話をする吸血鬼は、再びワインを飲んだ。神父はいつものように眉間にしわを寄せて、面白くなさそうに彼の話を聞いている。


『ああ、これは可愛らしいお嬢さんだ』

 アーサー・ヘルシングはそう言って私の手を取り、まるでどこかの令嬢に対するように手の甲へ口づけた。


 この男が同じ事をしたのには驚いた。丁度、アーサーの命日の日に。

 こいつはひどく怒っていた。私が拒絶したからだろう。別段、アーサーに義理立てしたわけではなく、この男に抱かれるのも別にどうでも良かった。

 ただ、この地下室という場所が嫌だった。ここは人間に与えられた私の領分だ。本当の最後の領地はちっぽけなあの棺桶分の空間しか、この世にはない。それがたとえ空っぽだとしても。それでも。

 なのにそこへ当然のようにやってきたこの男と、追い出せない自分をひどく苦々しく感じる。

「みんな、死んだぞ」

 私を抱いた者はみな。

「私を置いて死んでしまう」

 お前もそうなのか、アンデルセン。

 神父がグラスを置くと、転がった瓶が触れて、カチリと音を立てた。

「俺は死なんさ」

「へえ」

「お前を滅ぼすまでは」

……それは楽しみだ」

 揶揄するでもなく呟いた吸血鬼は、少し眩しそうに神父を見た。

「お前が後から来るのなら、死ぬのも悪くはないと思えるな。その時は、私があの世で出迎えてやろう」

 この男の手にかかったら、同じところへ逝けるのだろうか。吸血鬼自身もそんな事は信じていない。第一、たとえあの世の使いでも、こいつなら私の顔を見た途端、銃剣で襲いかかってきそうだ。

 アンデルセンは皮肉めいた笑みを漏らした。

「お前が出てきたらびっくりして生き返るかもしれん。だからやめておけ」

「あの世に会いたい人間が、たくさんいるんだな。アンデルセン」

「お前もそうだろう、アーカード。それが長生きするという事だ」

 人間でも化物でも。生きている人間よりも、死んだ人間の方が懐かしい。

 私が逝くところにはきっと誰もいない。そして誰も訪れはしないだろう。

 煉獄で私が手にかけたすべての生き物から罰せられるというなら、どんな苦痛を受けても構わない。そこにお前がいるのなら。

 だが、それは絶対にありえない。


 化物のような人間と、人間のような化物がこんなに静かな時間を過ごす事がそもそもありえないのだが。私たちは互いによく似ている。そしてまるで異なる存在だ。

 戦うでもなく肌を合わせる事もなく二人が穏やかに過ごしたのは、一日だけの事だった……。






 獲物がかち合ったのは偶然だった。

 自分の銃剣を身体に刺したまま逃げ惑う化物を、半ば覚めた心地で徐々に追いつめてゆく。半分は化物を仕留める嬉しさで高揚したままだったが、それは任務遂行には何の影響も与えない。

 奴は道の行き止まりで振り返り、恐怖に憑かれた眼を限界以上に見開いて自分を見上げた。

 今、楽にしてやる。

 俺は神父だ。だが、ほとんど人間ではなくなった奴の眼には、俺の姿が死神の如く映っているのだろう。その解釈はあながち間違ってはいない。

 死神よりも確実な死を化物に与え、手応えのなさに少々失望してこんなものかと思い、神父は銃剣を持って血糊を振り落とした。化物でも血は赤いのだと思うと、いつも苦々しく感じる。

 その瞬間、体中の血が沸き立つのを感じた。まだ、そいつは現れない。気配すらもない。だが判るのだ。

 こんなにも歓喜を感じる獲物は、お前以外にいない。

「アーカードッ……!」

 並の人間ならば気絶するような膨れ上がる濃密な闇の中へ、放たれた銃剣は白い銃に弾かれ、澄んだ金属音をまき散らしながら虚空へと吸い込まれた。


 鉛玉の食い込んだ重い身体を引きずり吸血鬼に近づく。機能が低下して再生が追いつかず、ようやく皮膚の表面までせり出した弾丸が、ひしゃけた形を晒していくつも床に落ちた。

 心臓から銃剣を生やし、壁に縫い留められても、尚も吸血鬼の白い銃は神父に照準を合わせていた。それが火花を噴いた。

「ぐあっ!」

 灼熱の痛みが太腿を貫いたが、神父は彼を睨みつけたまま倒れ込むように銃剣を突き立て、吸血鬼の胸ぐらを掴み上げた。

 うっすらと凄絶な笑みを浮かべた吸血鬼が、ゆっくりと片手を上げる。神父の頭を抱き寄せ、耳元に何か囁いた。

 それを振り払うように握っていた銃剣に力を込めると、刃が吸血鬼の喉に徐々に食い込んでいく。

……ごほ……っ……」

 激しく咳き込んだ彼の血潮が、神父の顔までも赤く彩り、それでもお互い血まみれのまま目を反らさない。吸血鬼の腕が力を失って、だらりと落ちた。

 何度聞いても慣れない、肉の繊維を断ち切る音と骨にごきりと食い込む金属のおと……。 

 朦朧とする意識の中、立っているのが精一杯だった。

 神父が膝をつくのとほぼ同時に、吸血鬼の首が血だまりの中へごとりと沈んだ。その髪を掴んで引き寄せ、血と泥にまみれた白い顔をすぐ近くで見つめる。

 確かに死んでいる。今は……。

 サロメのように額に押し当てて、その瞳が開かないことを祈った。誰にだか判らなかった。神に祈ってこいつが死ねるなら、俺はいつでも喜んでそうするだろう。

 銃剣の落ちる金属音が続いた。もう見なくても判っている。

 血だまりと化した身体から触手が伸びて、神父の手や足に絡みつく。

 また生き返るのか、お前。どうして死なない。

 以前のように、バラバラになった肉片に何度も銃剣を突き立てることもできず、繰り返す悪夢のような光景を、絶望を通り越した感情が冷静に見ている。

 生きている。こいつはまだ死んでいない。

 その後に浮かぶ自らの感情をどうしても認めたくなくて、神父は手に持っていた首を乱暴に床に叩きつけた。

 返された首を触手が包み込み、吸血鬼のどろりと濁った黄色い瞳が神父を見返していた。

 俺は嬉しいのか。まだこいつと戦えるから。こいつが生きているから。感謝するのか、いったい何の神に対して。こいつが死なないのは、神の罰なのかそれとも呪いなのか。俺に倒せないのは何故だ。力が足りないのか、信仰が足りないのか。

 ざわざわと蠢く闇が動きを止めた。黒い霧に洗われて、人の形を成したばかりの吸血鬼が、神父を見下ろした。

「二度は言わない」

 お前は知っている筈だ。それですべて終わりだ。お前の目的も、私の目的も。

 両手をついてうつむいたままのアンデルセンは、顔を上げず彼を見ようともしなかった。

「今夜はなかなか愉しかった。お前は人間にしてはやる方だよ」

 吸血鬼が立ち去っても、神父は拳を握りしめたまま、ずっとその場を離れなかった。彼を支配しているのは絶望ではなく、いつまでもこだまする吸血鬼の言葉だった。


『心臓を抉り取れ、アンデルセン』






 いつものようにその身体が欲しくなり、吸血鬼をたやすく絡め取り組み敷いた。この化物は初めから抵抗などしなかった。身体に執着なぞしていないのだろう。目に見えて嫌がるのは、噛みつかれる事と血を飲まされる事くらいか。吸血鬼にしてはおかしな話だが。

 最近はそうでもない。何かをあきらめたような静かな表情で、与えられた血液を飲んでいる。それが俺のでも自分のものでも。

 痛みも快楽も、この身体は感じているのだろう。だが、それを感じている吸血鬼の心は、その表情からうかがい知る事はできない。

 はかなく涙を流す風情や、喘ぎ声を漏らして自分にすがりつくその顔がたまらない。自分の名を呼ぶ声をもっと聞きたくて、殊更彼を責め立てる。

 化物なのに。

 その存在の不確かさは生物というよりも植物のように受け身で、雪とか光とか闇とか、そんな生きてはいない現象のように感じる。

 一瞬でも目を離せば、たちまち空気に溶けて消え去ってもおかしくないような。

 だからいつも容赦できない。この世にあることを確かめるように、無理やり高みから引きずり下ろし、生き物という殻の中に閉じ込めて自分のものにする。何度でも飽きることなく。自分の背中や腕に刻みつけられる爪痕も、こいつがここにいる証だと思えば心地良い痛みだった。

 最初はそんなつもりじゃなかった。猫が鼠をいたぶる様に、自分の獲物だという屈辱を身体に刻んだにすぎない。なのにこいつの涙を見るたびに錯覚しそうになる。まるで人間のようだと。

 生き物として扱っているのは自分でありながら、必死でこいつは化物なのだと言い聞かせている。

 その気になればいつでも逃げられる筈だった。求めれば応じる。一体どういうつもりなのか。

 いつも限界以上にこいつを追い詰めないと気が済まない。もはや声もなくかすかに首を振る身体を抱き寄せる。自分の腕の中でだけ見せる表情に、それを見ているのは自分だけだという胸の高鳴る気持ちを、何といったらいいのだろう。泣きながら眠りにつく顔が好きだった。


 今なら殺せるかもしれない。自分の腕の中で穏やかに眠る吸血鬼の顔を見つめながら、そう思った。子どものように泣き疲れて、無防備にその身体を投げ出している。

 もし本当にこいつが死んだら、自分は一体どうするだろうか。死んだということを納得できるのだろうか。灰になるのか骨が残るのかは知らないが、いつか復活すると信じ、世界をさまよい歩いた挙句、ほとんど狂った状態でどこかで野垂れ死にする筈だ。たやすく想像できてしまう。

 かけがえのない子どもたちを失ったときも、異教徒という名の人間を惨殺した時も、化物を虐殺した時も自分は変わらなかった。それなのに。

 何故そんな事を思ってしまったのか。


 そして。

 不意に吸血鬼が眼を見開いた。




「約束を覚えているか?」

 彼が一度だけ、自分に誓わせた約束。

……ああ、忘れていない」

 その返事を聞くと、吸血鬼は再び眠りについた。いつか自分が殺される日を夢見ているのだろうか、その顔は穏やかで静かだった。

 自分は確かにそう誓った筈だった。目の前の吸血鬼自身に。嘘ではない。

 殺しあうのが日常で、この時間がそもそもありえないのだと、彼は自分を現実に引き戻す。

 そのとおりだ。

 神父は指を伸ばして、吸血鬼の白い頬にそっと触れた。

 殺す相手に対して、お前は無防備すぎる。


 深い苦しみと後悔を伴うこの時間がずっと続けばいい。誰に何を言われても、誰にも許されなくても。

 祈る相手は神ではなかった。こいつと自分のために。





 この男の腕が、何度も自分の身体を絶頂へと導く。快楽も苦痛も与えられるかりそめの死も、すべて自分には心地良い。なぜならその感覚だけが、唯一私にとって現実だと感じられるからだ。

 闘っている時に受ける苦痛も、この狂おしいまでの快楽も、今ここにお前と私が存在するという証だ。

ずっと死を願ってきた。それを与えてくれる人間を待っていた。気の遠くなる程、長い間。

 私を倒したのは、ただの年老いた人間。それが私にとってどれほどの絶望をもたらしたか、お前には判るまい、アンデルセン。私は死ねたんだ。なのにそいつは私を滅ぼすことをしなかった。

 まるで、神のように。このまま生き地獄をさまよえと、やつと同じ道を選んで私を置き去りにした。

 私は従う。私の存在が神の意思によるものならば、喜んであの一族の狗となって働こう。それを望むのなら。身体を作り変えられ、ますます死ぬ運命から遠ざかったとしても、その命令は私にとって神の言葉に等しいものだ。

 自分の神に逆らって存在し続ける私のような化け物を、滅ぼすことをお前が使命と信じているように。滅びの時に、私は初めて許されたと思えるのだろう。

 同じ神を信じていた筈なのに、私とお前はまるで違う存在だな。

 一緒には逝けない。判りきっている。だから、この時間は私にとって夢のようだ。

 私は祈らない。

 私を滅ぼすのはお前がいいと思うのは、願いではなく化け物の気まぐれなたわごとに過ぎない。

 お前は笑うだろうか。

 なあ、アンデルセン。

 嘘だろう? 

 お前が私を愛しているなど。

 そんな筈がない。

 何度、お前の血を味わい思いを辿ってみても、答えは出ない。ただ甘くて苦い味だけが残る。血に飢えて人を喰らう私よりも、こいつは激しく私の身体を貪る。

 お前は、一体何に飢えているんだ。

 新しい涙が流れて、アンデルセンの顔が滲んで見えた。絶頂へと追いやられる意識の中で、なぜだかこの男がひどく哀れに思えた。どうしても涙が止まらない。

 

 私には何もない。この身体すら私のものではない。ただの紛い物だ。好きにすればいい。お前は私を滅ぼせば満足なんだろう。ならば、何故そうしない。どうしてこんな……。

 吸血鬼は溢れそうになる言葉を飲み込んで首を振った。



 堰が切れたように吸血鬼が叫んだ。

「お前の愛なんかいらない」

「俺もお前を愛してなどいない」


 ならばこれは何だ。何故俺はお前の肌に触れ愛撫し、口づけをくり返すのか。何故、お前は逃げもせずに、俺に組み敷かれたまま、泣きながら快楽の声を漏らすのか。

 どうして……。


 お前の言うとおりだ。愛など何の役にも立たない。あるのは憎しみにも似た、互いへの執着心だけだ。

 

 すでに雨は止み、雲間からおぼろげな月の光が差し込んでいた。

 この世に二人だけ。

 その苦い思いを噛みしめて、何度も逢瀬と戦いをくり返す彼らを。

 ただ猶予の月だけが見ていた。




Fin