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ときどき凡々 18 2018103福岡県久留米発 

祝・930日沖縄県知事選結果、玉城デニー氏が大勝(過去最多得票)!!

問われているのは、誰なのか、何なのか

 沖縄県知事選では、玉城デニー氏(無所属)が396632票を獲得し、8174票の大差で佐喜真淳氏(無所属・自民、公明、維新、希望推薦)を破り当選した。

最大争点「米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に、イエスかノーか」に県民が下した結論は、またしても、明確に「ノー」だった。普天間基地の返還は賛成だが、新たに沖縄県内(辺野古)に、新基地を建設することには絶対反対という意味である。

 元々、「日本国土の06%の面積しかない沖縄に、在日米軍基地の70%以上が集中」という極端なアンバランスが、沖縄県民の犠牲の上に継続してきた。

「沖縄は基地経済のお陰で生活が成立している」という見方もかつてはあったが、現在の沖縄経済の基地依存率は約5%であり、(例えば観光業界のように)今や基地の存在が経済発展の大きなマイナス要因となっているらしい。軍用機の騒音、環境破壊、米兵の犯罪、婦女暴行等々、住民の不安、不満は限界に達している。だから現状を直視する誠実な人ならば、例えば故翁長雄志知事のように保守の出身であっても、反基地闘争に命懸けで取り組まざるを得なかった。

 玉城デニーさん(58)は、父が米兵で、10歳まで養子に出され、その後も母子家庭に育った苦労人。ラジオDJから沖縄市議、衆院議員を経て本土復帰後8人目の沖縄県知事に当選。夫人の評では「裏表のない、でも一度決めたら曲げない性格」で、休みがあればギターを弾いて過ごす明るい人らしい。

翁長知事の遺志を受け継いで、玉城新知事も「辺野古に新基地は絶対に造らせない」と訴えてきた。しかし、安倍政権の新基地建設の強権政策は、着々と進行中であり、建設阻止は非常な困難事に違いない。但し地元住民の反対意志が今回選挙で再度明確にされている。それを無視して強行することが、民主主義国家として許されるのだろうか。それこそ重大な憲法違反ではないのか。

ちなみに本日(10月3日)の朝日新聞報道によれば、米紙ニューヨーク・タイムズは、今回の沖縄県知事選の結果を報じ「何度も何度も、沖縄の民意は新しい基地を欲していないことを示している。日米は公平な解決策を探るべきだ」と主張しているそうだ。沖縄県民、玉城新知事の目指す方向を、今こそ全日本国民が再考すべき時、日本国憲法の底力が具体的に問われる時ではなかろうか。

問われているのは、結局、私達全日本国民であり、日本国憲法に違いない。

 

ときどき凡々 №17 2018917福岡県久留米発

 北海道地震をはじめ、自然災害での被災者の皆様に、心よりお見舞い申しあ

げます。私は学生時代、篤農家である、友人のご実家(北海道厚真町)に2年

続けてお邪魔したことがあります。厚真町は今回震度7の震源地です。友人(現

在は他県)の電話では幸い死傷者はおられないが、農地建物等の損壊は大分あ

るらしいとか。全国、全被災者の方々の、ご無事と一日も早い復旧をお祈りし、

同時に行政の適切な支援を求めるものです。

 ところで地震は天災かもしれませんが、戦争はほぼ100%「人災」のようです。

人間の真の英知と愛情、国際協力でゼロに出来る筈です。ムカシは抵抗戦争、

革命戦争など「正しい戦争」もあり得たが、核兵器の登場以来、戦争はかなり

「絶対悪」に近くなっていると私は考えます。

 しかし現実の世界は、とくに911事件(米国同時多発テロ)以降、ますま

す暴力化し、軍事力による国際関係が当然のこととされるようです。「民衆の右

傾化」が世界中で進み、排外愛国ヘイトが大手を振るような社会に近づくよ

うで恐ろしい。後悔しないように、たった今為すべきことは何でしょうか。

 ここで一つだけささやかな提案を致します。それは、「戦争映画の名作を見よ

う、見せよう、広めよう」と言うことです。いま一人一人が戦争の実態を、「頭

で知り、心で感動する」ことは、地味な行いかもしれませんが、やがて集まれ

ば人間の未来を照らす光ともなるのではないでしょうか。

まず10本だけ選んでみました。どれも力のこもった感動的な作品で、自信を

もってご紹介致します。(図書館、DVDレンタル店等でどうぞ)

❤まずは①~⑩の10選から!

  「火垂(ほた)るの墓」2005年・日本映画・(原作)野坂昭如(演出)佐藤東弥(主演)松嶋菜々子、石田法嗣、佐々木麻緒、井上真央、岸恵子➜「戦争は人も街も、そして心も、燃やしてしまう」その各シーンが胸にしみる。

  「独裁者」1940年・アメリカ映画・(製作、脚本、監督)チャールズ・チャップリン(主演)チャールズ・チャップリン、ポーレット・ゴダード➜世界で、最も有名な映画のひとつ。喜劇王チャップリンが命を懸けた作品。

  「ひめゆりの塔」1995年・日本映画・(監督)神山征二郎(主演)沢口靖子、永島敏行、後藤久美子➜実話、エピソードを慎重に検証しての映画化4作目。主演オーディションに2人残り後藤久美子に決定。あとの一人は安室奈美恵。

  「硫黄島からの手紙」2006年・アメリカ映画・(原作)「玉砕指揮官(栗林中将)の絵手紙」(監督)クリント・イーストウッド(主演)渡辺謙、二宮和也、伊原剛志➜戦後60年、小笠原硫黄島地中から発見の手紙数百通より。

  「原爆の子」1952年・日本映画・(監督、脚本)新藤兼人(主演)乙羽信子、滝沢修、北林谷栄➜新藤は広島県出身で原爆映画に執念。内容は家族で一人生き残った幼稚園の女性教師が、5年後、被爆した教え子達を訪ねる物語。

  「アンネの日記」1959年・アメリカ映画(原作)アンネ・フランク(監督)ジョージ・スティーヴンス(主演)ミリ―・パーキンス➜世界大戦で殺された500万のユダヤ人中に、アンネ一家があった。13歳から2年余の隠れ家生活で彼女が記した日記は、戦争の悲惨さを訴えつつ、なお人間の善性を信じ、感性のみずみずしさを失わない。映画も良いが原作はさらに素晴らしい。

  「二十四の瞳」1954年・日本映画(原作)壺井栄(監督)木下恵介(主演)高峰秀子、12名の小学生、青年役俳優➜小豆島「岬の分教場」の女先生と小学一年生の戦後に続く物語。当時「キネマ旬報」1位。日本中が泣いた。

  「ビルマの竪琴」1985年・日本映画(原作)竹山道雄(監督)市川崑(同じ作品を2回映画化)(主演)中井貴一、石坂浩二、➜ビルマ(現ミャンマー)の日本軍は苦戦。音大出の小隊長は隊員に合唱を教え込む。日英両兵士の合唱「埴生の宿」はじめ、名曲の流れる中で哀しく感動的な結末を迎える。

  「雲流るる果てに」1953年・日本映画(「戦歿海軍予備学生の手記」より)(監督)家城巳代治(主演)鶴田浩二、木村功、岡田英次、山田五十鈴➜学徒出陣で特攻を志願した若者達は、「同期の桜」を歌う中で死出の旅へ。

  「戦争と人間」1973年・日本映画(原作)五味川純平(監督)山本薩夫(主演) 滝沢修、芦田伸介、浅丘ルリ子、栗原小巻、北大路欣也、吉永小百合、加藤剛、石原裕次郎、三国連太郎、佐久間良子、山本圭、岸田今日子、中村勘九郎、高橋英樹、高橋幸治、丹波哲郎、田村高広、二谷英明、山本学、江原真二郎、地井武男、西村晃、夏純子、高橋悦史、和泉雅子、松原智恵子、鈴木瑞穂➜ 戦争映画のテーマは様々で、戦争の原因、戦闘そのもの、兵隊生活、留守家族、空襲、飢餓、戦争責任、そして愛情・・・・どれも重要だが、1本では時間の制約もあって中身が限られる。ところが、この作品「戦争と人間」は戦時の大金持(資本家)、軍部から一般庶民、農民まで、あらゆる階層の人々の生活と運命と愛を、日中の広大な舞台で描き切る大作(約10時間)。惜しくも1970年代映画産業斜陽化で、ラストが短縮されているが、日本映画の最大スケールは間違いなし。面白さも抜群です。

 ❤次の10選をタイトルのみご紹介。良い作品があれば、是非お教え下さい。

  「日本で一番長い日」 ⑫「きけわだつみの声」(わだつみ=海)

  「禁じられた遊び」 ⑭「永遠の零」 ⑮「戦場にかける橋」

⑯「月光の夏」 ⑰「わたしは貝になりたい」

⑱「兵隊やくざ」 ⑲「シンドラーのリスト」 ⑳「大地の子」(10時間超)

※実は近く「久留米九条の会」でDVD戦争映画を見る運動?の提案予定です。今回 私自身、①~⑩を再視聴し、だいぶん涙を流しました(清水)。  

 

ときどき凡々 16 2018811福岡県久留米発

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《追悼》翁長雄志沖縄県知事の急逝を悼み、沖縄と日本の

平和へ捧げられた、命懸けの人生を心から称えます

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真夏・の・夜の・夢の・いろいろ

 

ムカシ話から始めたい。幼児期の私の夢は、母親によると次のようなものだった。「当時は軍国主義の時代(敗戦前、旧満州)でしょ、男の子の夢は、《兵隊さんになる・大将になる》だったのよ。あんたが《兵隊さんになんかなりたくない》って泣くもんだから、変わった子ねえって、笑われてたのよ。家の近くに練兵場があって、手足のない傷痍軍人(しょういぐんじん)さんを毎日見ていたから、怖かったのかしらねえ」というお話。

 郷里長崎県島原に引き揚げ、小五ぐらいで泣き虫小僧はリンカーンの崇拝者となり、写真を天井に貼りつける。中三のハンガリー事件では新聞(西日本新聞)の虜(とりこ)となってソ連の軍事制圧に憤る。高二で南米移住の夢にはまり北大に憧れる。北大では安保闘争で挫折し石狩をふらつく。ボランティアで児童養護施設に通い出し(三年間毎週・多泊)、その間、保護者不在の子らとの裸の付き合い(男児のみの施設)から、人間の幸不幸をしみじみと考えだす。無力な自分に失望する。南米への夢も揺らぎだす。卒業後十年は学歴を否定しての現場労働従事。もしかすると、特に清掃作業員の7年間あたりが私にとって人生の華(はな)だったかもしれない。人間にも社会にも夢を描き、ベトナム反戦に燃え、その間に誠実でしっかり者の娘と結ばれる。二児にも恵まれ、人生の志は全て叶うかのように思えた。(次男出生はその後)

ところが、その「自信」(実は思い上がり)は、(妻の発病《脳腫瘍》、自宅での看護、別れ、息子達の子育て、帰郷して老母の介護、看取り、姉二人の世話)と続くケア生活30年で崩壊。特に前半では、生活だけで精一杯、夢の「ゆ」の字とも縁遠い日々だったかもしれない。仕事も(右手の欠損もあり)、現業から教育職(中学教諭、塾講師)、島原市議へと転々。市議時代多少の時間が生まれ人生を再考。やはりアジアでの「現地生活」の夢が捨て切れず、高齢も迫る中で市議3期目を断念。辞職し博多の日本語学校に通って資格を取得。昨年、何とかカンボジアで日本語教師職を得るも、8ヵ月で熱中症から肺炎を併発しての帰国。その後医者通いしながら養生し、腰痛を除き体力はほぼ回復。

以上、大まかに自分の夢の移り行きを書いてみたが、ここに至っての正直な心境は「夢半ば」ということだ。市議時代、全く無償の市民応援を数多く頂きながら応えられず、誠に申し訳ないと感じるし、77歳の身で気恥ずかしくもあるが、私の本来の夢は「これから」と本気で考えている。

 有難いことに、大筋の道はそれなりに見えて来ている。現在、自分の人生目標は決まっているつもりで、それは「共生」ということだ。(「ときどき凡々」№12の写真をご覧下さい)私のTシャツの文字は「共生」だが、カンボジア人同僚のお世話で、その1カ月ほど前に染めてもらったもの(カンボジア語、英語でも記入)。日本語教師として勤めながら、ライフワークの一環として、まずポル・ポト政権時代の同胞虐殺の悲劇を、同じアジア人の一人として、私の力の及ぶ限り知り、熟考したかった。それは私自身の心身の弱さとアクシデントで不可となったが、「夢」自体が消えた訳ではない。高齢化、体力低下等の現実は勿論厳しいが。

 

大きく考えると、私の「共生」テーマの夢には三つの方向がありそうだ。

  まず、日本国憲法九条を護り抜き、それをアメリカはじめ世界に「押しつける」夢。(小紙№14・№15)の通り、九条(戦争放棄と軍備全廃)を発案したのは、幣原であり、GHQ案に受け入れたのはマッカーサーだった。しかし(象徴天皇制との関連もあったが)これは世界史上にも奇跡的な憲法の誕生だった。大きく考えれば、実は、幣原もマッカーサーも歴史のひとこまにすぎず、この憲法を産み出した真の主体は、前回も触れたが、大戦の死者(軍人、市民推計)4千万人の声なき声、いや魂を震わす悲痛な絶叫だったに違いない。それゆえ、九条を護り抜く闘いには、それをアメリカはじめ世界に「押しつける」夢には、4千万の方々の、家族近親者を含めれば何億という方々の壮絶な悲願もかかっている、と言わなければならない。

第三次世界(核)大戦が起これば、人間はほぼ絶滅するだろう。営々と築きあげて来た文化文明は、人類自滅の悪夢につながるのか。憲法九条を護り、史上初の世界平和を実現させる所に、日本人として私の第一の夢がある。 

  有史以来、私たち人間族は「欲望と支配幸福観」に操られ、差別を作り戦争を起こした。その根底に男女間の差別がある。私は妻との結婚生活から教えられ、五十冊ほどのフェミニズム(女性主義)書に学び、「フェミニズムこそ男女双方にとって幸福の最大源泉」という結論に達した。フェミニズムで統一された社会に戦争は起こり得ない。・・・・この夢を一生追い続けたい。

  地球外知的生命体(UFO関連情報は世界各地で暴露公開されつつある)の平和志向と連携して、まず平和を確保し核兵器を全廃する。次にフリーエネ

ルギー(例えば無料の電力)を導入し、ノアの方舟以来の人類「大変革」時代を将来世代に用意する夢。そこには貧困も飢餓も消失するのかもしれない。まるでユメのような話 だが・・・・

 

ときどき凡々 15 2018629福岡県久留米発

「憲法九条は誰が発案したのか」②

●(平野文書より)幸いマッカーサーは天皇制を存続する気持をもっていた。本国からもその線の命令があり、アメリカの肚(はら)は決まっていた。ところがアメリカにとって厄介な問題が起こった。それは豪州(オーストラリア)やニュージーランドなどが、天皇の問題に関してはソ連に同調(天皇制廃止)する気配を示したことである。

●この情勢の中で、天皇の人間化と戦争放棄を同時に提案することを僕(幣原)は考えた訳である。豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。

●マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまくいった訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚いたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。

●この考え(象徴天皇制と戦争放棄を合わせる考え)は僕だけではなかったが、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形を取った訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。 

●なお念のためだが、君(平野三郎)も知っている通り、(略)このいきさつは僕(幣原喜重郎)の胸の中だけに留めておかなければならないことだから、その積りでいてくれ給え。

 

(補足・笠原十九司)194611日天皇が神格化を否定したいわゆる「人間宣言」を詔書として発表したことについて、これを天皇に進言し、詔勅の文章を起草したのが幣原で、幣原は外国向けを考えて、まず英文で起草し、それを日本語に訳したという経過である。これは外国人に天皇のイメージを変える効果があったのでマッカーサーも喜んだ。天皇を「象徴Symbol」としたのは、イギリスのウェストミンスター憲章の文言からヒントを得たと書いている。

(補足・笠原十九司)幣原内閣発足当時は陸海軍大臣がおり、陸海軍省廃止後も旧軍部が隠然として勢力を残していた。そのような状況下で「軍備全廃」を主張することはきわめて困難かつ危険であっただろう。幣原が告白しているように、「押しつけ」すなわち「マッカーサー案」として提示されなければ実現できないと判断される、きびしい現実が日本の政治状況にあったのである。

(補足・笠原十九司)幣原の書いた「外交五十年」は、憲法第九条として結実した、戦争放棄・軍備全廃を、幣原自身がマッカーサーに発案した経過の核心部分は「あまりに生々しい」と書かずに中断した。死の直前に、その「生々しい」経過を平野に対して語った際にも、公表しないように命じた。そのことが、憲法九条の幣原発案説をめぐって論争が繰り返されてきた根本的理由であろう。 

(マッカーサー側の記録より)

★(195155日米国国会上院軍事・外交合同委員会でのマッカーサー証言)

日本国民は、世界中の他のいかなる国民にもまして、原子戦争がどんなものであるかを理解しております。・・・彼らは、彼ら自身の発意で、戦争を禁止する旨の規定を憲法に書き込んだのであります。・・・日本の内閣総理大臣幣原氏(この人は大変賢明な老人でありましたが、最近亡くなられました)この幣原氏が私の所へやって来てこう申しました。

「これは私(幣原)が長い間考え、信じてきたことですが、この問題を解決する道は唯一つ、戦争をなくすことです」彼はまた言いました。「軍人であるあなたには、到底取り上げて頂くわけにまいらないと、私も承知しており、はなはだ申し上げにくい次第ですが、とにかく、私は、現在我々が起草している憲法の中にこのような規定を入れるよう努力したいのです」

私は、これを聞いて思わず立ち上がり、この老人と握手しながら、これこそ最大の建設的な歩みの一つであると思うと言わないではいられなかったのであります。そして彼らは、あの規定を書き込むことになったのであります。

★(1955年ロスアンジェルス正餐会マッカーサー演説・ニューヨーク・タイムズ同年127日付)日本人は、もう一度戦争に参加することは、勝つにしても負けるにしても、おそらく、彼らの民族の滅亡を招くであろうということを、実感として知っているのです。日本の幣原老首相が私の所に来られて、日本人自身を救うには、国際的手段としての戦争を放棄すべきであると主張されました。私が賛成すると、首相は「世界は我々を非現実的な空想家といって、ばかにするでしょうが、百年後には、予言者と呼ばれるでしょう」と言われました。

 

❤(清水記)「憲法九条は誰が発案したのか」の答は、「幣原が発案し、マッカーサーが受け止めてGHQ案に入れ、正式な手続きを経て日本国憲法が成立した」となる。但しその根本には、世界大戦の死者数(軍人、市民推計)4千万人(百科事典・マイペディア)という限りなく重い事実があることを、決して忘れてはならない。「過ちは繰り返しませぬから」(広島原爆慰霊碑)と私達は誓ったはずである。今こそこの誓いの真価が問われているのではなかろうか。

 

ときどき凡々 14 2018617福岡県久留米発

「憲法九条は誰が発案したのか」①

戦争放棄と戦力の不保持を定めた日本国憲法第九条こそ、「日本の誇り」と私(清水)は確信するが、それを「GHQ(連合国軍総司令部・初代最高司令官はマッカーサー)の押しつけ」と嫌う人達もいる。

日本国憲法は、旧憲法(大日本帝国憲法)の手続き(天皇の発議、枢密院と帝国議会の議)を経て、1946113日公布、翌年53日に施行された。即ち正式な手続きを経て制定されており、これを「押しつけ」とは呼べない。

また、形式ではなく憲法が実質的に国民の総意、幸福と合致するものか。この観点から検証すれば、その回答は、誰の目にも明らかであろう。即ち、戦後70年、日本はいかなる戦争にも巻き込まれず、戦争で一人も殺さず、殺されなかった。世界史上に輝く平和な時代を、実現できた事実がある。最友好国アメリカが、最好戦国(戦争抜きには経済が成立しない国)であったことを考える時、これは奇跡かもしれない。憲法九条の成せる奇跡に違いない。

 

しかし今回は視点をかえ、雑誌『世界』(岩波書店刊)6月号「憲法九条は誰が発案したのか」笠原十九司論考によって、考えてみたい。敬称略。

  戦争放棄を定めた日本国憲法九条の発案者は、当時の首相、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)だったか、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーだったのか、については1950年代から論争があった。

  (幣原の政治姿勢)幣原は大正デモクラシー時代に外務大臣を歴任した。「幣原外交」の信条は、国際協調、恒久平和、中国への不干渉など、一連の理念を具体化するものだった。しかし、満州事変(1931年)から日中戦争へ戦争が拡大、さらにアジア太平洋戦争へと突き進むようになると、幣原外交は、「軟弱外交」、「国辱外交」、と批判された。自宅の門や壁は、「国賊」、「売国奴」などと書きなぐられ、投石されることもあった。194010月、近衛文麿首相がナチスのような挙国一致の一国一党体制をめざして大政翼賛会を結成すると、全政党は解党し、貴族院議員、衆議院議員もこぞって入会した。しかし、貴族院に議席を持っていた幣原は、不賛成を表明し、大政翼賛会への入会を拒否した。そして満州事変から日本敗戦まで14年、彼が政治の表舞台に出ることはなかった。

  (幣原内閣の誕生)敗戦時74歳の幣原が、1945106日、余生を鎌倉で過ごそうと引越荷物と共に門を出ようとしたその時、宮内省の車が来て呼び出され、宮内省にて天皇から直接に内閣組閣の大命を受けた。幣原が選ばれた理由は、木戸幸一日記(105日)によると、「(東久邇宮内閣の)後継首相につき懇談協議す。此際、米国側に反感のなき者、戦争責任者なるの疑なき者、外交に通暁せる者との見地より、第一候補幣原男爵、第二候補吉田外相に意見一致す」ということだった。

  (幣原の最終的な結論と行動)(「平野文書」より抜粋)(平野文書とは、幣原が憲法九条を発案した経過を遺言のようにして、19512月下旬、秘書役の平野三郎に語ったもの。その10日ほど後に幣原は急逝)

 

(英語が自由に話せた幣原は、1946124日、総司令部本部にマッカーサーを訪ね、通訳を介せず長時間語り合った)(●は幣原の発言・平野文書より)

●要するに軍縮は不可能である。絶望とはこのことであろう。ただもし軍縮を可能にする方法があるとすれば一つだけ道がある。それは世界が一斉に一切の軍備を廃止することである。・・・ここまで考えを進めてきた時に、第九条というものが思い浮かんだのである。そうだ、もし誰かが自発的に武器を捨てるとしたら・・・・

●恐らくあのとき僕を決心させたものは、僕の一生のさまざまな体験ではなかったかと思う。何のために戦争に反対し、何のために命を賭けて平和を守ろうとしてきたのか。今だ。今こそ平和だ。今こそ平和のために起つときではないか。そのために生きてきたのではなかったか。

●非武装宣言ということは、従来の観念からすれば全く狂気の沙汰である。だが・・・武装宣言が正気の沙汰か。それこそ狂気の沙汰だという結論は、考えに考えた結果もう出ている。

●好むと好まざるにかかわらず、世界は一つの世界に向かって進む外はない。来るべき戦争の終着駅は(原子爆弾の普及により)破滅的悲劇でしかないからである。その非劇を救う唯一の手段は軍縮であるが、ほとんど不可能というべき軍縮を可能にする突破口は、自発的戦争放棄国の出現を期待する以外ないであろう。同時にそのような戦争放棄国の出現も亦ほとんど空想に近いが、幸か不幸か、日本は今こそその役割を果たし得る位置にある。歴史の偶然はたまたま日本に世界史的任務を受け持つ機会を与えたのである。

●それに僕には天皇制を維持するという重大な使命があった。元来、第九条のようなことを日本側から言い出すようなことは出来るものではない。まして天皇の問題に至っては尚更である。この二つは密接にからみ合っていた。(続) 

 

(原文を参照されたい方は、図書館等で「世界6月号」の《憲法九条は誰が発案したのか》(笠原十九司)(計17ページ)をどうぞ。コピーご希望は清水まで。郵送OK。傍線等で読み難いかもしれませんが。スミマセン

 

ときどき凡々 №13 2018521福岡県久留米発

 大変永らくご無沙汰いたしました。「ときどき」どころか「ときたま」、あるいは「たまさか」ともなりそうでした。私の体調を心配して下さった方々もおられました。有難うございます。私は(腰痛を除き)結構元気です。他事ながらどうぞ御休心下さい。今日は日常生活の一端をお伝えしましょう。

 (関東の利根川、九州の筑後川、四国の吉野川)を日本三大河川と呼ぶらしいですが、そのひとつの筑後(ちくご)川(愛称「筑紫(つくし)次郎」)は当地久留米を流れております。拙宅は2階ですが、窓の下を国道3号線が通り、そこをママチャリ茶わんむし号で10分ほど北へ走ると、筑後川と交差します。

若い頃から私は川が好きでした。川べりをどこまでも歩きたい、と心を弾ませました。土手に咲く小さな花のほのかな芳(かぐわ)しさに浸ったり、黄色や白の花びらとたわむれる蝶たちに目を奪われました。それは今もあまり変わらずで、性格が小さな子どもと共通しているのかもしれません。(でも、いま時の幼児は、ゲーム機の方がお好き?) 

 私の心中の三大河川をあげれば、1番は石狩川(札幌~石狩)、2番が利根川(千葉)か瀬田川(大津)か保津川(京都府亀岡)か白川(熊本)、3番に筑後川が来るようです。それぞれに実人生の出来事が、折々の夢と挫折が密接に絡んでいるようです。郷里島原の音無川(おとなしがわ)はロマンチックな響きを漂わせますが、ほんの細流(同名で和歌山の歌枕あり)です。

 その筑後川に私は毎日通っております。河川敷には各種グランドや草原が広がり、狭い所もサイクリングロードだけは、上流の大分県まで続きます。自転車走行6キロ、徒歩500メートルが「日課」です。(腰痛のリハビリ)

 茶わんむし1号は、当時島原で介護中の母(97歳で他界)からもらった名前で、母と別れたあと、還暦記念で鹿児島県知覧まで走りました。知覧特攻会館では、彼らの若い純粋さに涙が止まらず、不戦の誓いを新たにしました。茶わんむし2号は電動自転車で、阿蘇山まで往復、でも頂上でバッテリーが切れ、島原までは脚動で戻りました。茶わんむし3号は久留米の自転車店で3年前、最安価のものを求め、その後愛用。野の花を愛でながらの走行は爽快。筑後川土手には、この5月、紫のアザミがあちこちで、風に揺れておりますよ。

 私の人生最終プランはまだ確定していませんが、大きな目標は「共生」です。カンボジアでも学生諸君に「私は日本人だが、カンボジアも大好きです」と広言して来ました。ある女性新聞年賀状に数年間「フェミニズムは男女共通の幸福の源泉」と投稿して来ました。国家や民族の違い、性差で一度しかない人生を汚したくはないですよね。

 

ときどき凡々12 2018112 福岡県久留米発

「明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします」 

私は《年越しそば》も新年の《お雑煮》も、姉がお世話になっている、郷里島原の施設でいただきました。お正月でも帰宅しなかった10名位のお年寄りと、施設の数名のスタッフの皆さまで、楽しい会食となりました。数の子なんて、ホント何年ぶりかで食べました。いまは数の子がかなり高級品ですが、戦後しばらくは安くて庶民のおせち料理には付き物だったようです。そんなことも思い出しながら美味しくいただきました。

 ところで昨年は妻と別れてちょうど30年目の年でした。彼女は精一杯生き抜いて(脳腫瘍で5年間の闘病後)旅立ちました。その昨年30年目は私にとっては「激動」と言えそうな1年間でした。その中身を箇条書きにしてみます。

・(2月)カンボジア職業訓練校に日本語教師として赴任し、近い将来日本に就職予定の、20代中心の男女学生に「あいうえお」から教え始める。

・カンボジア人の若者は純朴、陽気で優しい心情の持ち主が多く、すぐ好きになったが、残念ながら勉強の習慣は皆無と言った感じだった。

・そのような彼らを「バカだ」「怠けもの」と見下しがちの一部の日本人に、腹立たしさを覚えないではいられなかった。しかし、能率、効率が優先する企業的制約があることも確かだった。

・朝昼晩の3食とも、学生達と、彼らが交代で食材を買い調理した料理を食べ、「旨い」と感じていた。それはウソではなかったが、次第に私は痩せて行くような感覚を味わっていた。食材の変化(それまで魚中心だったのが、肉中心に変わったり)にも依るのかもしれない。元々の腰痛に加えて便秘症にも悩まされた。自分がナーバスnervous(神経質)なのが情けなかった。

・(5月)村に1軒の店しかないような、自然の中のコンポンチュナン校から、首都の雑踏の中のプノンペン校に転勤。(「ときどき凡々」№6参)その際、学生達が涙を流して送ってくれ、私も胸を熱くした。プノンペン校では日本人男性教師1人とカンボジア人女性教師4人のスタッフに私が加わった。

・(8月)カンボジア人女性教師のお世話で、「共生」の文字(漢字・英語・カンボジア語読み)を染め抜いたTシャツを3着オーダーメイドした。(写真で私が着用している)

・この「共生」の2文字こそが、私の人生テーマの結論であり、カンボジアに来て半年というより、妻との別れより30年、やっと達したものだった。この2文字を終生追求するところに、妻と約束した「本物」もあるに違いない。そう思われてならなかった。高揚感の中に私はあった。

・しかし、全ては自分自身の無知や甘さから由来したのだが、状況は激変し、やがて私は敗北感の中で帰国せざるを得なくなった。

  読者は、カンボジア・ポルポト政権時代(1975年~1979年)の大虐殺について覚えておられるだろうか。小紙№8に書きかけて、あまりにも惨(むご)くあまりにも大量(150万人~300万人?)(当時は植民地支配、内戦、クーデター等が続き、正確な人口動態も不明か)で資料不足のため中断した。その後も(帰国後も)細々ながら関係書を読んでおり、いつか私に出来る範囲でお伝えしたい。

  カンボジア国内に今も残る虐殺跡、埋葬地は300か所以上あるらしいが、もっとも有名なのがプノンペン市内の、キリング・フィールド(映画より付けられた通称?)とトゥール・スレン博物館。私は前者を1回(8月)、後者を5回(81回、9月4回)訪ねた。実はもっと訪ねるつもりだった。

  9月)当地のお盆で休日も多く、4回トゥール・スレンを訪ねた。そこは中学高校の敷地跡だそうで4棟の建物と広い庭(グランド改造?)があった。

  (9月の日記より)《16日・音声ガイドは前回聴いたので、中庭等のベンチに6時間ほど座って考える。ここは拷問、処刑、血なまぐさい人間史上、最もおぞましいダーティーな極点のひとつ。だが自分だって無関係ではありえない》《19日・毎回、ベンチなどで数時間過ごす。この惨劇の意味は?自分が毎日接する親しい学生達の血筋の人が、被害者であり加害者であったという歴史的事実。それは耐えられないほど重い》《21日・スレンの23か所のベンチで、虐殺とは無関係の20代からの自分をあれこれと回想。見学者は欧米人が多いようだが、彼らは何を心に得て帰るのだろうか。備え付けのノートに私も記入。和文は見当たらなかった》《22日・やはり数時間をスレンのベンチで過ごすが今日は少々苦しい。それも社会性のある問題で悩んだのではない。暑気、便秘、食事、フラフラ等に悩まされた。情けない。早く雨季が終わって欲しい》スレンは宿舎から私の腰痛歩行でも1時間以内の距離で、往路は歩き、復路は歩いたり迷ったりトクトクに乗ったりした。「水も飲まずに、そんなに歩かないで」と同僚には注意されていたのだが。

  10月・小紙№10参)食事に呼びに来た学生の前で倒れ、救急車でプノンペンの病院に運ばれる。風邪、熱中症から肺炎併発と診断。急きょ群馬の長男と連絡が取られ、彼と帰国し日本の病院で検査治療を受けることとなる。諸方にご迷惑をおかけしたが、帰国し、その後はお陰さまで肺炎等感染系もがん系も、ほぼ全快(問題なし)。体重も徐々に回復。腰痛は残ったが。

・3年前、市議を退職し久留米に転居、博多の日本語学校に通い教師の基礎資

格を取得。ご縁があってカンボジアに就職でき、長年の夢を実現したかに思

えた。だが、その8か月目に自分の甘さから、このような事態となり本当に面目ない。再度トライをするとしたら、体力の「回復」というより「増進」が不可欠に違いない。ベストを尽くしたい。

・自分が真に敗北したかどうかは、これからの生き方次第、ということかもしれない。自分の甘さ、不注意から、体力的に負けたのは確かであり、恥ずかしい。しかしカンボジア人学生諸君と、勿体ないほどの親愛関係を結べたことも確かだと自分では思う。さらに、「共生」こそ一生のテーマだと確信出来たのも、カンボジアの地であった。

・来週から「九条の会」(久留米ちっごの会)の学習会に参加させて頂く。テキストは「憲法と政治」(青井未帆著・岩波新書)で楽しみにしている。

・次の写真は、1011日のお別れミニパーティー。左方5人が女性教師(4人カンボジア人、1人日本人)で他は男女学生と私。職員室で長男撮影。彼がもらした言葉「お父さん、幸せだねえ」が嬉しかった。 

 

ときどき凡々11 20171230福岡県久留米発

いつ頃から「海外に移住したい」などと憧れ出したのだろうか。その起点の日と、それが自分の信念にまで固まった(ように思われる)日は、案外はっきりしている。前者は高校2年生新クラスでの自己紹介スピーチの時であり、後者は今から30年前、妻の他界の日の夜であった。(その日の日記より抜粋)

 

1958426日)スピーチをやった。まず自己紹介をやり、「趣味は空想です」と言ってから、僕の空想「ブラジルにユートピアを作りあげる」話をした。その中で「心の美しい、出来れば才色けん備の女性を見つけて・・・」と言いかけたら、皆がワアーッと言った。

 

1987911日)(深夜2時頃、来客も帰り子ども達も就寝)最後にもう一度、妻に会っておこう。明日は正式のお通夜、明後日は葬儀なので、ぼくが一人だけで彼女と対することはもうあるまい。日赤の看護婦さんに体を拭いてもらい、黒いワンピースに、薄化粧までしてもらっている。化粧など結婚以来、初めてで終りだったことだろう。きれいだったよ。そしておだやかなおだやかな寝顔。

ここできみに言っておきたい。ぼくは本物になるつもりだ。世間の評判とか、モノやカネに動かされない、真の美しさと価値を求めて一生を貫くぞ。それがぼくなりに出来たとき、きみは、ぼくのすべてを認め、芯から嬉しそうに微笑んでくれることだろう。必ず本物に。

ここは病院じゃない。ここはきみの家だよ。みんなで8年半も過ごしたその家だよ。そしてきみが病気と数年間闘い抜いたところだよ。でももう闘わなくてもいいんだ。ほら、子ども達もあそこで寝ている。きみも安心しておやすみ。

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「必ず本物に」の思いは今に至っている。しかし、「本物」の中味は何なのか。その具体像はこの間、変化したようだ。生前、妻と私は、三留理男(みとめただお)氏(写真家、私より三歳年長、引揚者)のアフリカ飢餓写真集「アコロ(喰うものをくれ!)」に、共に涙したことがあった。細々としたカンパ送付位は継続した。戦中、戦後派の当然として戦争を憎んでいた。

上記高校時代からの「夢」があり、明治日本からの「脱亜入欧」政策は諸悪の根源、といった私なりの結論もあった。しかし、妻との別れより30年、子育て、帰郷しての母の介護、姉の世話等々の中で、残念ながら私は生活だけで精一杯、「本物」への道筋を具体的に探る能力、気力に欠けてきた。(つづく)

 

ときどき凡々10 20171216 福岡県久留米発

 3か月近くも小紙の発行をお休みし、大変失礼いたしました。また御心配も頂いたようで誠に申し訳ございませんでした。その間の事情について、私的に差し上げたハガキの文章をそのまま転載致しますので、ご一読いただき、ご了解下されば幸いです。

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 永らく御無沙汰いたしました。

 私は体調を崩し、8ヵ月近く続けた日本語教師を辞め、カンボジアから帰国しました。ポルポト時代の大虐殺地を連日訪ね、脱水症から肺炎となり、救急車で運ばれるなど、オーナー、先生方、学生諸君にも大変ご迷惑をかけました。結局、呼び出された長男(群馬)とともに帰国となりました。

 その後、感染系とがん系の検査治療を受け、お陰さまで感染系は完治、がん系(体重減少あり)も先日、「ほぼ問題なし」となりました。一時はすっかり自信を喪失しましたが、今は来春まで体力(含腰痛)改善に努め、出来る範囲で再トライのつもりです。

 たかが脱水症位に負けてしまう情けない自分ですが、喜劇的ドン・キホーテ型(注①)の私は諦めきれないのです。(お年賀は失礼し、ご報告は多分来春になることでしょう)

 以上私事のみで申し訳ございません。向寒の折から、どうぞ御自愛くださいませ。201711月末

 〒830-0016久留米市通東町4-10組坂ビル201 清水 宏

                       (以上でハガキ文終り)

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注①   ドン・キホーテ」

(上記セルバンテス(スペインの作家15471616)の小説「ドン・キホーテ」の、映画化作品「ラ・マンチャの男」について、自分の日記より転載させて頂きます) 

2016922日の日記(久留米)より》

ミュージカル「ラ・マンチャの男」の評判は聞いていたが、実はDVD映画を観るのは初めてだ。(島原市民劇場での仲代達矢主演の舞台観劇はあった)映画は島原の賢人I氏の推薦なり。

 娼婦アルドンサ(俳優ソフィア・ローレン)の歌から囚人大合唱に至る終幕。

《見果てぬ夢を追い/かなわぬ敵に挑む/耐え得ぬ悲しみに耐え/勇者も行かぬ地へ向かう/永遠のかなたまで/旅に疲れていても/届かぬ星に手を/どんなに高くても/求めた心を忘れず/遠く到達しがたい星に向かおう》

 これはかなり印象の強い、自分にとっては「名画」に違いない。そこにはまず、身の程をわきまえず夢や理想に突き進む、ドン・キホーテ(俳優ピーター・オトゥール)の純情がある。見当外れのお笑い喜劇とも受け取られかねないが、あの時代、宗教裁判も人々を圧し、社会全体が現代より格段に閉塞状況にあった頃、セルバンテスが突拍子もない喜劇仕立てで本作品を作ったのは、(弾圧自体も本作に内在化されているが)その底に人々を圧殺する雰囲気への強い抵抗心があったからに違いない。

 またこの作品はそのテーマが、色情溢れんばかりの娼婦アルドンサが、男から男へと体を売り継ぐ人生に、なお潜む真情の芽生えの物語としても設定されている。その点はソフィア・ローレンの圧倒的な存在感もあって、かなり成功しているように感じられた。

 自分も、勿論内容、スケールは全く異なるが、かなり無法で世間的には「お笑い」を浴びるような人生をこれまで送ってきたようだし、これからも送りそうである。それを思うと、本作は自分にとって、心強いエールを終生贈り続けてくれる佳品となるかもしれない。

   ※どうして、カンボジア(東南アジア・発展途上国)等に魅かれるのか、

    は次回に書かせて頂くつもりです。

 

ときどき凡々No.9 2017921 カンボジア国プノンペン発

 前回、カンボジアのキリングフィールドについて書きかけました。調べるうちに、(負の)人間精神史上の恐ろしい事件(自分も当事者になり得る)のように、思えてまいりました。現地(独房跡、血痕の残る拷問室、写真、数千の頭蓋骨等)や書物にも学びながら、時間をかけて考えて行くつもりでおります。

そこで、取りあえず今回は、日常生活のスケッチを送らせていただきます。

早朝5時起床から私のプノンペン生活が始まります。カンボジアと日本の時差はちょうど2時間(カンボジア午前5時のとき、日本は午前7時)です。今朝は午前4時起床でした。どうしてそんなに早く目が覚めるのか。理由は簡単で、前日夕食後ちょっと横になるとそのまま白川夜船

の旅へグースカグーグー。深夜目覚め「健康第一、健康第一」と口の中でつぶやき、すぐ船旅へ戻り、次の目覚めが午前5時・・・ということなのです。

腰痛は、毎日のストレッチ体操と散歩のかいもなく回復せず、相変わらず前のめりにヒョロヒョロ、よたよたの歩行スタイルです。でも少しは腹筋力がついたのか、便秘の際の「踏ん張り」が以前よりマシのようです。それだけでも、時には幸せな気分です。昔は下痢はしても便秘はあまりなかったのに、逆になってしまいました。食生活の変化が主因でしょうか。私はむしろ野菜や魚系を常食としていたのに、カンボジアにわたり、毎食の肉料理(トリ肉主体、時にブタ肉、川魚)に「青春の再来」を感じつつも、少々の違和感もありと言ったところです。元来何を食べてもおいしい方でその点の不満はありません。島原の友人からは「これ以上は骨がつかえて痩せられないだろう」と言われていたのにまた痩せたようです。ただし元気旺盛(のつもり)で、学生達に「シミズ先生のガッツポーズ」は案外人気(?)。 

海外での生活を開始して半年、自分の甘さ、怠け癖が次々とあぶり出されるような感じですが、痛感するのは「家族共通の性格」といったもののしたたかさです。当紙「ときどき凡々」の前身である島原市議時代の「月刊凡々」には、かなり身内の恥をさらしたりしましたが、その思いを益々深めております。例えば二番目の姉K子(故人)は、極端な不器用さと社交下手で際立ち、生涯を孤独のうちに過ごしました。一応後妻に入り先方も好人物だったのに、心の扉は開かなかったようです。そんな姉を子どもの頃は恥ずかしく思い、成人後は気の毒な人と感じながらも、「自分は大丈夫(?)」といった思い込みから抜けられなかったようです。ラスト2年、彼女は長崎の病院に入院し、私は毎週見舞いに通いました。でも心の琴線に触れるような対話は無く、単に義務を果たす感じでした。自分も同様の性癖を有している。私こそ姉の心に分け入ることができる、唯一の人間だったかもしれないのに・・・その思いを今カンボジアにいて胸中で噛みしめております。

ところで、今月911日は亡妻春枝の命日で、30回忌を迎えました。春枝は特に秀でたところもない人でしたが、「自分にも他人にも正直である」ことには誰にも負けなかったと思います。共に道を歩むかぎり、裏切られると言ったことは考えられない人でした。

あの時、葬儀場に掲げられた遺影(彼女の渡欧時パスポート写真の拡大コピー)はこの30年、いつも身近(私の部屋)にあり、私や子らを見守り続けてくれました。そのような役割を果たしてくれて本当にありがとう。しかし半年前、自宅(久留米)を去るにあたって、私は妻の遺影はしまい込み新たな写真を飾りました。それが「月刊凡々」94号に掲載した、石のごろごろした道をたきぎを背負いながら、裸足で歩く少女(多分南米コロンビア高原)の写真(50年ほど昔の雑誌写真の拡大コピー)です。

おそらく亡妻春枝は、30年後に自分の遺影でなく、この新しい写真が飾られたことを心から喜んでいるに違いありません。もし天国が時間空間を超越した融通無碍(ゆうずうむげ)の世界であるならば、春枝の魂は、とっくにコロンビアの少女の魂に会いにいっていることでしょう。少女の生死は別としてね。ああ、本当に、一日も早く、国境とか人種とかの区別―差別が無くなれば良いですね。私たちは、そうやって結局大きな不幸をもつくり出しているのではないでしょうか。

 

ときどき凡々№8・2017/8/16・カンボジアプノンペン発

 私だって悪魔になるかもしれない 《キリングフィールド①》

 4年前に初めてカンボジアを訪ね、シェムリアップの有名な遺跡、アンコールワットを見学した。壮麗さには感嘆したが、勉強不足で深くは理解できなかった。そして翌日から3日間、ホテル前を通る国道6号線より北側の街路や農道を、朝から夕刻まで、てくてく歩きまわった。その頃は背中も痛くなかった。

北側にはアンコールワットも位置しているのだが、それより2キロほど離れた所にワットトメイがある。(ワットとは寺院のこと)道で遊んでいる子どもたちに尋ねると、元気のよい男の子が3人で道案内をしてくれた。ここはカンボジアに300ヵ所以上あると言われるキリングフィールドの一つである。

 1975年~1979年のポルポト政権下で、カンボジア国民は「大虐殺時代」を耐えなければならなかった。この場合「耐える」とは、「抵抗せずに殺される」という意味である。大虐殺と言えばナチスドイツのユダヤ民族虐殺が連想されるが、カンボジアではカンボジア人が同じカンボジア人同胞を虐殺したのだ。その数は当時の国民の3分の1にも相当する200万人~300万人と言われている。ポルポト政権の「農民革命路線」といったものに従わない(と思われた)人達、知識人、政治家、教育者、宗教家、技術者、各層指導者、官僚等々が根こそぎ処刑されたらしい。拷問の末の「自白書」や「情報」が重視されたらしい。夜明けから日没までの重労働(農作業中心)、11回(?)の食事(おかゆ一杯)からくる極端な栄養失調と病気等々も、大量死を加速させたらしい。殺し方も兵器不足なので銃砲は用いず、こん棒、鎌、斧、鉈(なた)などによる残忍な方法であり、本人が掘ったその穴に突き落とされ、生き埋めにされる場合も多かったらしい。一ヵ所に幾百、幾千と重なった死体から染み出す油と腐臭で覆われた死体処理場(埋葬地)が「キリングフィールド」である。

 私はトメイ寺院の人骨(特に頭蓋骨)が天井まで詰まったお堂型の展示を見ても、案外驚かなかった。「ホウ、よくも集めたものだ」と言った感じだった。来場者も少なかったので、ゆっくり写真や他の展示物も見て回り、売店のお兄さんとも言葉を交わし(彼の親族も犠牲者)、お土産に「カンボジアキリングフィールドの子ども達(生還者の記憶・英文)」という薄い本を買った。

 帰途、(歩いては休み、歩いては休み)しながらその本を読んだ。涼しい木陰やベンチではなく、細かな赤土が風に舞う中で、道ばたのちょっとした段差とか、ブタ小屋につづく草むらに腰をおろしたりして読んだ。これは当時、幼少年少女だった筆者29名が、目前で起こった事実を記したもの。彼らは国際NGOや教会等の援助により、欧米系の学校に通うなどして社会人となったらしい。その彼らが幼い目と心でとらえた大虐殺の記録は、恐ろしくショッキングであるとともに、胸にせまって哀しい。

トメイ寺のお堂の頭蓋骨(ずがいこつ)は、私が見たときは静かだったのに、今や子ども達の自由な文、精一杯の表現に肉付けされ力を得て、それぞれに語り出した、いや絶叫し出した・・・もちろん勝手な想像だが、そんな恐ろしい光景が私の胸中に生まれ、やがてそれに圧倒されそうになってきた。

翌日も、翌々日もトメイ寺に通い、細かな赤土にまみれながら歩き、ほぼ同じ道筋をたどり、食事も同じおばちゃんの屋台で、土地の人と同じものを食べた。そして読んだ。英語力の不足を何とか想像力で補いながら、子ども達の信じられないような記録を読んだ。ただし3日目には、偶然目に入った日本NGO掘削井戸の表示板を読んでいて、現地係員の若い女性に声をかけられ、気持ちの休まる対話のひとときも過ごすことができた。

実はこの原稿を書く数日前に当国最大規模らしいチュンエクのキリングフィールドを訪ねた(プノンペン南部)。広い敷地に整然とした順路表示や音声ガイド(日本語)機サービスもあって分かりやすかった。しかし私はチュンエクではなく、4年前に接したトメイ寺院から書き始めたい。そこで入手した子どもたち自身の手による物語の紹介から始めることにしたい。

カンボジアでの日本語教師就職が決まったとき、私は長男に頼んで30冊ほどの本を、電子化して携帯した。その中に上記「カンボジアキリングフィールドの子ども達」と、日本人カメラマンによる当時の写真集がある。

 

※(前号「ときどき凡々№7」中の語句を修正します)(修正前)「(カンボジア人は)男性は大柄でハンサム」➜(修正後)「(カンボジア人は)男性は大柄で赤銅色の肌をもち、それぞれにハンサム」

 

ときどき凡々№7 2017730・カンボジア・プノンペン発

 カンボジアに住みだしてから5カ月が経ちました。一日が終わるとやはり少々疲れ、夕食後、横になるとそのまま眠ってしまうようです。深夜、目覚めても「健康第一」などと自分に言い訳をして、トイレ後はまた睡眠。しかし朝は5時に起き、「天声人語」(朝日新聞コラム)に目を通しております(ネットで)。

 せっかく(?)カンボジアまで来たのだから、腰痛(円背)をなんとかして軽減したいと、長男推奨のストレッチ体操、また小一時間の散歩も試行中。なかなか効果は上がりませんが、何か始めると何か面白いことも起こるようです。先日の散歩中、こんなことがありました。大通りを横切ろうとして、バイクや車が途切れずウロウロしていると、いきなりむんずと腕をつかまれました。見ず知らずのおばちゃんです。振りほどこうとすると、ますます強くつかんで真剣。次の瞬間、彼女は私の腕を引っ張ったままバイク洪水に突入。観念して私も腕を預けたまま、何とか大通りを渡りきり、そこで顔を見合わせてニタリ。

 大通りではありませんが、私が住む住居の前の道路では毎日朝市が開かれ、野菜や果物が路上に並びます。眺めるだけでも楽しいですが、今朝ふと脇に目を移すと先日のおばちゃんがいて、顔を見合わせてニタリ。この「ニタリ関係」のご近所衆が(散歩道でも)少し増えたようです。

カンボジア人は言われるように、明るく陽気でよく笑い、男性は大柄でハンサム、女性にはアンコールワット遺跡の浮彫りのような、豊満なバストの方が多いようです。そして私が印象づけられたのは「よく歌う」ところです。

コンポンチュナン校時代、土砂運搬ダンプ運転手数名の方々と接する機会がありました。と言っても毎朝あいさつを交わす程度ですが、私が必ず脱帽(野球帽)するので親愛感を持たれたのか、前を通ると私の肩を叩いたり、私が一人の時は「ふかしイモ(?)」を届けてくれたりしました。(彼らは車内か、簡易ハンモックで眠り、調理道具、食材等を持参しての自炊)その彼らが休憩中、食事中、移動中など、突然歌い出すのです。ほんのワンフレーズですが、他人にもはっきり聞き取れるくらい明瞭に。

ところがその後、学生達も授業時以外ではよく歌い出すのに気づきました。男女の違いはなさそうです。今のプノンペン校のカンボジア女性講師陣も、それぞれ仕事の合間などにワンフレーズを小声で口ずさみ、それが私にも快く聞こえるようになってきました。ささやかですが、これも「異文化理解」といったものでしょうか。元々歌といったものは、その時の気分に合わせ、本人自身で楽しめば良いものかもしれません。・・・さて私は何の歌にしようかな。

今回は日常の一端をお伝えしました。いま日本は「猛暑」なのでしょうか。当地は雨季でもあり案外涼しいです(31℃~32℃)どうぞ皆様お大切に。

 

ときどき凡々 №6 2017・7・5 カンボジア・プノンペン発 

 ご無沙汰いたしました。実は5月末に、急に勤務校が、コンポンチュナン校(スワイポップ村)から、カンボジア国首都のプノンペン校に変わりました。理由は私の体調(腰痛他)などで、希望はしていたのですが、急な転勤に驚きました。10年ぐらい前まで電気も通じていなかったというカンボジアの寒村から、この国最大の都市であるプノンペンへと移りました。街角には人や車やバイクやトクトクがひしめき、喧騒とごみと人間の体温が醸し出す「生温かさ」のような生活臭が漂う下町で、私は相変わらずフラフラ、ウロウロしております。(トクトクは4人乗りの簡易バス)

 コンポンチュナン校と別れるとき、こんなことがありました。土曜の午後にその異動が不意に伝えられ、日曜の午前中には出発となりました。ここは全寮制ですが土曜は家に帰る学生もいて(同僚日本人教師も外泊)、学生全員と別れの挨拶は出来ません。いっそ誰にも黙って去ろうかと思ったのですが、現地スタッフの勧めもあり朝食(朝6時半・コンポンチュナン校は三食とも学生の手作り)時に居合わせた十名ほどの学生に伝えました。

 荷物をまとめ、午前9時すぎに食堂(作業場に円卓いくつかといすを並べて三食とも会食)へ行くと、学生達が集まっていました。スタッフが私のために別れの場を作ってくれたようです。出発(スタッフの車で)もあと10分ほどに迫った時、誰か分かりませんでしたが、突然学生の一人が「先生が好きです(日本語)」と口走ったようでした。まるでそれが合図だったかのように、その場の学生達が、横や後ろに顔をそむけて泣き出してしまいました。私も胸が熱くなり、一人びとりの手を握りましたが、中には泣きはらしたような表情もあって、私は返す言葉が見つかりませんでした。

今期(3月~7月)の学生19名をコンポンチュナン校に迎えて2ヶ月半、日本語ゼロのカンボジア人学生諸君とクメール語(カンボジア語)ゼロの私との出会いは、文字通り「あいうえお」から始まりました。私の勉強不足、日本語力の低さゆえに、同僚日本人教師からご指導も頂きましたが、学生の皆さんには多大の迷惑をかけてしまいました。今回は私の事情が主因での転勤であり、文句を言われて当然なのに逆に彼ら彼女らは、心ときめく言葉と真情でわたしを送り出してくれたのでした。宿題ノートをリュックに詰めて階段をヨタヨタ昇降した私に、彼らは「先生も大変だろうけど、私たちだってつらい体験をしてきたんですよ。だから頑張って」の人生エールを贈ってくれたのかもしれません。

カンボジアはアジア最貧国のひとつであり、不幸な歴史もあって、社会制度も生活面インフラ整備も、遅れています。私の勤務する職業訓練校に入る学生達も、多くは極貧の家庭出身で、貧困から抜け出る最後の手段が、借金をしてでも「息子や娘を日本に就職させ、家庭に送金させる」ことだったのかもしれません。

6月中旬には日本に就職する学生の付き添いで一時帰国しましたが、島原では入院中の姉に会えたのみでした。いま、姉は退院、私自身も元気でおります。どうぞご安心下さい。

 

ときどき凡々 №5 2017・5・14 カンボジア発

いま自分はいったいなにをしているのだろう。何の目的でここ(カンボジア・コンポンチュナン州・スワイポップ村)にいて、いったい何ができるというのか。午前5時頃目ざめ、今日の予定をぼんやり頭に描きながら、そのような思いにとらわれて、ぐずぐずと時を過ごしてしまうことがよくあります。

 

昨年、私は福岡県久留米市にいて、「トシビーンスクール」というミニ塾で、チャプリン映画「独裁者」のラスト、彼の演説「DICTATOR(ディクテイタ―・独裁者)」を学びました(原文)。彼はその時代(第2次世界大戦前)から、人間の合理的(?)「機械文明」といったものの危うさに、警鐘を(命懸けで)鳴らし続けてきた人と私は考えます。チャプリンは警告します。「欲望が人々の魂を汚している。機械よりも貴重なのは人間性だ。知識や効率より心を大切にしないと、すべてが力関係となりやがて人類は滅ぶのでないか」と。

21世紀の今、アメリカや中国、ロシアが、多国籍企業、軍産共同体と結んで目指そうとしているものは結局、何なのですか。日本安倍政権がアメリカに追随しながら、私たち国民を追いやろうとするその先には、いったい、何が待ち受けているのでしょうか。

 

カンボジアは雨季に入り、日に何回かは、スコールというのか、烈風を伴った驟雨(しゅうう)に見舞われます。しかし案外朝方は晴れ間も多く、私は腰痛を気にしながら。農道をひょこひょこと歩いております。白い牛たちが草原を横切り、牛飼いに手を振ると、笑いながら応えてくれます。そのような折、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節がふと念頭に浮かぶようです。

 

「(略)野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニヰテ/東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲオヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンクワヤソシャウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」

 

この詩を、いま一度味わってみたいものです。宮澤賢治さん、どうぞ「銀河鉄道」に乗り、その「心」を私達に伝えに来てください。カンボジアにも是非!

 

ときどき凡々№42017年4月22日カンボジア・スワイポップ村発

  いま、土曜の午後2時、気温は36℃、自分の部屋(木造の職員寮)でこれを書いております。クーラーなしで暑いけれど、2階なので窓から微風も入り、窓外には学校(ここは日本語と農業の実習校)の畑(約4ヘクタール・近くはきゅうり畑)が広がり、案外快適です。

 カンボジアに来て2カ月が経ちました。少々痩せたし、腰痛には相変わらず悩まされております。授業や人間関係の悩みもあります。しかし大きく考えれば、自分は勿体ないくらい幸せな毎日を過ごしているし、その有難さを深くかみしめております。

 当地の風習で、結婚式や葬式には数日から1週間ほどかけ、大勢の人が集まります。それは良いのですが、静かな雰囲気が好きな私には、うるさくて少々不愉快でした。たとえば結婚式ですが、そのお祝い音楽(CD?)を、なんと朝5時頃から夜の11時頃まで、ラウドスピーカーでがんがんかけまくるのです。静かな村に大音量が流れます。ウーム許されない騒音・・でもだれも文句を言わないで(あ、今、小鳥が2羽、窓の木枠にとまって、チュンチュク鳴き出しました。カワイーイ・・でもな、頼むから中に入らないでくれよ、入るとお互い大変面倒なことに・・おっと飛び去ってくれました。ヨカッタ・・)

 翌日、村の店まで歩く途中で、原色の大きなテントを庭に設け、大勢の人がたむろする光景に出合いました。「ハハンここだな」と眺めていると、一人が私を手招きするじゃありませんか。「ヨーシ度胸度胸」と中に入ると、花むこを囲んで酒盛りの真っ最中。私も缶ビールを勧められ、大声で「おめでとうございまーす。カンパーイ!(オール日本語)」と叫ぶと、皆さん大喜び。次から次にビールやおつまみ(肉の辛し漬け?等)をいただき、「カンパーイ!」を連呼する国際親善のひとときとなりました。

 現在の心境(?)ですか。そうですねえ。→「うるさいのは好きじゃないけど、それが長年の土地の風習ならば、結婚式や葬式を派手にやっても好いんじゃない。皆がそれで満足ならさ」と言ったところかなあ。

 

ときどき凡々№3 201749日カンボジアスワイポップ村発

今日は日曜で授業がありません。朝5時過ぎに起床。幸い昨日の下痢は治まったようで、ほっとし、万物に心より感謝しながら起床。私は目下、三度の食事を全部ここの食事に頼っています。つまり男女19名のカンボジア人学生達が、市場から買い出し、全く自分たちだけで調理し、配膳までしてくれたものです。だいたい、汁物のどんぶりと、魚(川魚)や肉(豚肉が多い)料理の大皿がでて、そこから各自が銘々皿のライス入り皿に取り、スプーンとフォークでいただくのです。お味はなかなかのもので、ほぼ満足しております。少々辛いものが苦手な私のために、時には調味料の別皿まで用意してくれたり、有難いコックさん達です。

もう一人の日本人の先生は時々食事を抜かれるので、私一人が日本人だったりすることも多いのですが、外国人の中でも、違和感やストレスはほとんど感じないタイプなので、大丈夫です。本当に「チュガニュ(クメール語・おいしい)」!

現在最大の悩みは(自分の日本語教授能力の低さを除けば)、「アリ問題」かもしれません。当地のアカアリは、2~3ミリの小兵のくせに、噛みつかれると悲鳴を上げたいほど痛いのです(蟻酸)。それが部屋中に展開し、洗濯ロープに干した下着にまでたかる始末。うっかり暗い所で着替えたりすると大変なことになります。

でも早朝、砂糖ヤシの背景に、茜色に染まる牧場や畑作地を遠望しながら歩く楽しみは、当地でなければ、なかなか味わえないかもしれません。路傍には小さな白い花も咲いております。 

 

ときどき凡々 №2 2017325・カンボジア発

一週間の一人授業が終了。この間、同僚教師が日本に出張で、全く私のみでカンボジア人学生(19名男女半々)に毎日、3コマの日本語授業を実施。彼らは大半が日本語初心者で、あいうえお・アイウエオの読み書き学習を熱心にやってくれ、大量の宿題も毎回チェックし返却出来ました。

夜間に実施した「ひらがな全46文字テスト」の2回目では、14名が満点(正確に書ける)で嬉しくなりました。しかし一番気になっていたC(19歳女子)さんが、なんとマイナス26から、マイナス27へ転落。私も落胆。

私は朝昼晩の食事を学生と食べております。それは学生達が交代で買い出しから調理までを引き受けるものです。どんぶりや大皿

に入った汁物やおかずを、ライス入りの自分の皿にとって食べる方式ですが、毎食、Cさんは私の隣席です。彼女は私の右手少々不自由を知っており、そっとおかずを取ってくれたりするのです。そのCさんがこの成績とは・・・困りました。うーむ。

今日は土曜で授業がありません。昼食後、この辺りでは一軒しかない店へ、ペットボトルの水を買いに行くつもりです。途中で、いつも通り、白い牛と何頭も出会うことでしょう。

 

ときどき凡々 №12017318・カンボジア発

219日、大失敗(期限切れの古いパスポート持参)から始まった、私のカンボジア行は、その後も様々な失敗を重ねながら、でも何とか進行中。基本的には心身とも健康ですので、どうかご安心ください。

当地、コンポンチュナン州スワイポップ村の職業訓練校(私企業)職員宿舎の第一夜では、文字通り一睡もできませんでした。理由は単純で、自室はニ階で床は厚い板張りですが、その板がどれも1センチほどの間隔で空いているのです。階下は作業所で、夜になるとその隙間から無数の元気な蚊の大群が、ワア~ンと上がって来る次第。蚊帳(懐かしのかや)もあるのですが床面からの侵入には無防備。でも翌日には(予定通り)床にビニールシートが張られ、安眠が確保出来ました。

313日から授業開始。生徒は男子9名、女子10名で、年齢は19歳から30歳まで。彼らは、農作業と日本語の研修をうけ、数ヵ月後には日本に渡航、就職となるのです。

純朴で心優しい(私の腰痛を気遣って自主的に荷物を運んでくれたり)若者達です。でも勉強は嫌いそうだなあ。ウーム。(終) 

 


誠に勝手ながらのお願いを、
「月刊凡々」第96号 という形で
掲載致しました。一読して頂ければ幸いです。    2016年長月

       
         
   長崎県島原市  
    元 市議会議員 清水 宏   
     
   66歳で市議会議員“初”立候補。最下位で当選させて頂きました。
「凡人」なのに「変人」と言われることもあるようです。活動報告や考えを
月刊凡々」(私の市政だより)として発行しておりました。お読み下されば幸いです。
 
 
 
 
       


            立候補時の「マニフェスト」です
 
       市政に愛を!  
 
 
街頭演説のひとコマです       
   ① 郷土への愛
      ・美しい自然を守る
      ・切実な住民要求(超大型店・市議定数問題等)には即応
   ② 高齢者への愛
      ・福祉カットには市の保障を
      ・医者の「家庭往診」復活
   ③ 若者への愛
      ・全国事例、アジア規模での雇用創出
      ・財政借金のツケで将来世代を苦しめない長期計画
      ・子や孫を戦争で死なせない、世界平和実現は現世代の責務
         ④ 女性(男性)への愛
            ・「安心子育て」は、保育所・育児休暇・児童手当等の充実と
             夫(家族)の快い育児分担から
         
   ★ 当選したら・・・
       ・1年生として猛勉強
       ・市議として自ら市議定数是正20を
       ・市の財政改革プランを他の自治体と照合、補強しつつ実現に協力
       ・「私の市政だより」の毎月発行
   
   

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