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 凡人くらぶ 清水 宏(凡人くらぶ)事務所

 


いつもこのサイトをご覧くださっている皆様、大変ご無沙汰致しております。

ときどき凡々10 20171216 福岡県久留米発

 3か月近くも小紙の発行をお休みし、大変失礼いたしました。また御心配も頂いたようで誠に申し訳ございませんでした。その間の事情について、私的に差し上げたハガキの文章をそのまま転載致しますので、ご一読いただき、ご了解下されば幸いです。

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 永らく御無沙汰いたしました。

 私は体調を崩し、8ヵ月近く続けた日本語教師を辞め、カンボジアから帰国しました。ポルポト時代の大虐殺地を連日訪ね、脱水症から肺炎となり、救急車で運ばれるなど、オーナー、先生方、学生諸君にも大変ご迷惑をかけました。結局、呼び出された長男(群馬)とともに帰国となりました。

 その後、感染系とがん系の検査治療を受け、お陰さまで感染系は完治、がん系(体重減少あり)も先日、「ほぼ問題なし」となりました。一時はすっかり自信を喪失しましたが、今は来春まで体力(含腰痛)改善に努め、出来る範囲で再トライのつもりです。

 たかが脱水症位に負けてしまう情けない自分ですが、喜劇的ドン・キホーテ型(注①)の私は諦めきれないのです。(お年賀は失礼し、ご報告は多分来春になることでしょう)

 以上私事のみで申し訳ございません。向寒の折から、どうぞ御自愛くださいませ。201711月末

 〒830-0016久留米市通東町4-10組坂ビル201(℡0942-39-8669) 清水 宏

                       (以上でハガキ文終り)

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注①   ドン・キホーテ」

(上記セルバンテス(スペインの作家15471616)の小説「ドン・キホーテ」の、映画化作品「ラ・マンチャの男」について、自分の日記より転載させて頂きます) 

2016922日の日記(久留米)より》

ミュージカル「ラ・マンチャの男」の評判は聞いていたが、実はDVD映画を観るのは初めてだ。(島原市民劇場での仲代達矢主演の舞台観劇はあった)映画は島原の賢人I氏の推薦なり。

 娼婦アルドンサ(俳優ソフィア・ローレン)の歌から囚人大合唱に至る終幕。

《見果てぬ夢を追い/かなわぬ敵に挑む/耐え得ぬ悲しみに耐え/勇者も行かぬ地へ向かう/永遠のかなたまで/旅に疲れていても/届かぬ星に手を/どんなに高くても/求めた心を忘れず/遠く到達しがたい星に向かおう》

 これはかなり印象の強い、自分にとっては「名画」に違いない。そこにはまず、身の程をわきまえず夢や理想に突き進む、ドン・キホーテ(俳優ピーター・オトゥール)の純情がある。見当外れのお笑い喜劇とも受け取られかねないが、あの時代、宗教裁判も人々を圧し、社会全体が現代より格段に閉塞状況にあった頃、セルバンテスが突拍子もない喜劇仕立てで本作品を作ったのは、(弾圧自体も本作に内在化されているが)その底に人々を圧殺する雰囲気への強い抵抗心があったからに違いない。

 またこの作品はそのテーマが、色情溢れんばかりの娼婦アルドンサが、男から男へと体を売り継ぐ人生に、なお潜む真情の芽生えの物語としても設定されている。その点はソフィア・ローレンの圧倒的な存在感もあって、かなり成功しているように感じられた。

 自分も、勿論内容、スケールは全く異なるが、かなり無法で世間的には「お笑い」を浴びるような人生をこれまで送ってきたようだし、これからも送りそうである。それを思うと、本作は自分にとって、心強いエールを終生贈り続けてくれる佳品となるかもしれない。

   ※どうして、カンボジア(東南アジア・発展途上国)等に魅かれるのか、

    は次回に書かせて頂くつもりです。

 

ときどき凡々No.9 2017921 カンボジア国プノンペン発

 前回、カンボジアのキリングフィールドについて書きかけました。調べるうちに、(負の)人間精神史上の恐ろしい事件(自分も当事者になり得る)のように、思えてまいりました。現地(独房跡、血痕の残る拷問室、写真、数千の頭蓋骨等)や書物にも学びながら、時間をかけて考えて行くつもりでおります。

そこで、取りあえず今回は、日常生活のスケッチを送らせていただきます。

早朝5時起床から私のプノンペン生活が始まります。カンボジアと日本の時差はちょうど2時間(カンボジア午前5時のとき、日本は午前7時)です。今朝は午前4時起床でした。どうしてそんなに早く目が覚めるのか。理由は簡単で、前日夕食後ちょっと横になるとそのまま白川夜船

の旅へグースカグーグー。深夜目覚め「健康第一、健康第一」と口の中でつぶやき、すぐ船旅へ戻り、次の目覚めが午前5時・・・ということなのです。

腰痛は、毎日のストレッチ体操と散歩のかいもなく回復せず、相変わらず前のめりにヒョロヒョロ、よたよたの歩行スタイルです。でも少しは腹筋力がついたのか、便秘の際の「踏ん張り」が以前よりマシのようです。それだけでも、時には幸せな気分です。昔は下痢はしても便秘はあまりなかったのに、逆になってしまいました。食生活の変化が主因でしょうか。私はむしろ野菜や魚系を常食としていたのに、カンボジアにわたり、毎食の肉料理(トリ肉主体、時にブタ肉、川魚)に「青春の再来」を感じつつも、少々の違和感もありと言ったところです。元来何を食べてもおいしい方でその点の不満はありません。島原の友人からは「これ以上は骨がつかえて痩せられないだろう」と言われていたのにまた痩せたようです。ただし元気旺盛(のつもり)で、学生達に「シミズ先生のガッツポーズ」は案外人気(?)。 

海外での生活を開始して半年、自分の甘さ、怠け癖が次々とあぶり出されるような感じですが、痛感するのは「家族共通の性格」といったもののしたたかさです。当紙「ときどき凡々」の前身である島原市議時代の「月刊凡々」には、かなり身内の恥をさらしたりしましたが、その思いを益々深めております。例えば二番目の姉K子(故人)は、極端な不器用さと社交下手で際立ち、生涯を孤独のうちに過ごしました。一応後妻に入り先方も好人物だったのに、心の扉は開かなかったようです。そんな姉を子どもの頃は恥ずかしく思い、成人後は気の毒な人と感じながらも、「自分は大丈夫(?)」といった思い込みから抜けられなかったようです。ラスト2年、彼女は長崎の病院に入院し、私は毎週見舞いに通いました。でも心の琴線に触れるような対話は無く、単に義務を果たす感じでした。自分も同様の性癖を有している。私こそ姉の心に分け入ることができる、唯一の人間だったかもしれないのに・・・その思いを今カンボジアにいて胸中で噛みしめております。

ところで、今月911日は亡妻春枝の命日で、30回忌を迎えました。春枝は特に秀でたところもない人でしたが、「自分にも他人にも正直である」ことには誰にも負けなかったと思います。共に道を歩むかぎり、裏切られると言ったことは考えられない人でした。

あの時、葬儀場に掲げられた遺影(彼女の渡欧時パスポート写真の拡大コピー)はこの30年、いつも身近(私の部屋)にあり、私や子らを見守り続けてくれました。そのような役割を果たしてくれて本当にありがとう。しかし半年前、自宅(久留米)を去るにあたって、私は妻の遺影はしまい込み新たな写真を飾りました。それが「月刊凡々」94号に掲載した、石のごろごろした道をたきぎを背負いながら、裸足で歩く少女(多分南米コロンビア高原)の写真(50年ほど昔の雑誌写真の拡大コピー)です。

おそらく亡妻春枝は、30年後に自分の遺影でなく、この新しい写真が飾られたことを心から喜んでいるに違いありません。もし天国が時間空間を超越した融通無碍(ゆうずうむげ)の世界であるならば、春枝の魂は、とっくにコロンビアの少女の魂に会いにいっていることでしょう。少女の生死は別としてね。ああ、本当に、一日も早く、国境とか人種とかの区別―差別が無くなれば良いですね。私たちは、そうやって結局大きな不幸をもつくり出しているのではないでしょうか。

 

ときどき凡々№8・2017/8/16・カンボジアプノンペン発

 私だって悪魔になるかもしれない 《キリングフィールド①》

 4年前に初めてカンボジアを訪ね、シェムリアップの有名な遺跡、アンコールワットを見学した。壮麗さには感嘆したが、勉強不足で深くは理解できなかった。そして翌日から3日間、ホテル前を通る国道6号線より北側の街路や農道を、朝から夕刻まで、てくてく歩きまわった。その頃は背中も痛くなかった。

北側にはアンコールワットも位置しているのだが、それより2キロほど離れた所にワットトメイがある。(ワットとは寺院のこと)道で遊んでいる子どもたちに尋ねると、元気のよい男の子が3人で道案内をしてくれた。ここはカンボジアに300ヵ所以上あると言われるキリングフィールドの一つである。

 1975年~1979年のポルポト政権下で、カンボジア国民は「大虐殺時代」を耐えなければならなかった。この場合「耐える」とは、「抵抗せずに殺される」という意味である。大虐殺と言えばナチスドイツのユダヤ民族虐殺が連想されるが、カンボジアではカンボジア人が同じカンボジア人同胞を虐殺したのだ。その数は当時の国民の3分の1にも相当する200万人~300万人と言われている。ポルポト政権の「農民革命路線」といったものに従わない(と思われた)人達、知識人、政治家、教育者、宗教家、技術者、各層指導者、官僚等々が根こそぎ処刑されたらしい。拷問の末の「自白書」や「情報」が重視されたらしい。夜明けから日没までの重労働(農作業中心)、11回(?)の食事(おかゆ一杯)からくる極端な栄養失調と病気等々も、大量死を加速させたらしい。殺し方も兵器不足なので銃砲は用いず、こん棒、鎌、斧、鉈(なた)などによる残忍な方法であり、本人が掘ったその穴に突き落とされ、生き埋めにされる場合も多かったらしい。一ヵ所に幾百、幾千と重なった死体から染み出す油と腐臭で覆われた死体処理場(埋葬地)が「キリングフィールド」である。

 私はトメイ寺院の人骨(特に頭蓋骨)が天井まで詰まったお堂型の展示を見ても、案外驚かなかった。「ホウ、よくも集めたものだ」と言った感じだった。来場者も少なかったので、ゆっくり写真や他の展示物も見て回り、売店のお兄さんとも言葉を交わし(彼の親族も犠牲者)、お土産に「カンボジアキリングフィールドの子ども達(生還者の記憶・英文)」という薄い本を買った。

 帰途、(歩いては休み、歩いては休み)しながらその本を読んだ。涼しい木陰やベンチではなく、細かな赤土が風に舞う中で、道ばたのちょっとした段差とか、ブタ小屋につづく草むらに腰をおろしたりして読んだ。これは当時、幼少年少女だった筆者29名が、目前で起こった事実を記したもの。彼らは国際NGOや教会等の援助により、欧米系の学校に通うなどして社会人となったらしい。その彼らが幼い目と心でとらえた大虐殺の記録は、恐ろしくショッキングであるとともに、胸にせまって哀しい。

トメイ寺のお堂の頭蓋骨(ずがいこつ)は、私が見たときは静かだったのに、今や子ども達の自由な文、精一杯の表現に肉付けされ力を得て、それぞれに語り出した、いや絶叫し出した・・・もちろん勝手な想像だが、そんな恐ろしい光景が私の胸中に生まれ、やがてそれに圧倒されそうになってきた。

翌日も、翌々日もトメイ寺に通い、細かな赤土にまみれながら歩き、ほぼ同じ道筋をたどり、食事も同じおばちゃんの屋台で、土地の人と同じものを食べた。そして読んだ。英語力の不足を何とか想像力で補いながら、子ども達の信じられないような記録を読んだ。ただし3日目には、偶然目に入った日本NGO掘削井戸の表示板を読んでいて、現地係員の若い女性に声をかけられ、気持ちの休まる対話のひとときも過ごすことができた。

実はこの原稿を書く数日前に当国最大規模らしいチュンエクのキリングフィールドを訪ねた(プノンペン南部)。広い敷地に整然とした順路表示や音声ガイド(日本語)機サービスもあって分かりやすかった。しかし私はチュンエクではなく、4年前に接したトメイ寺院から書き始めたい。そこで入手した子どもたち自身の手による物語の紹介から始めることにしたい。

カンボジアでの日本語教師就職が決まったとき、私は長男に頼んで30冊ほどの本を、電子化して携帯した。その中に上記「カンボジアキリングフィールドの子ども達」と、日本人カメラマンによる当時の写真集がある。

 

※(前号「ときどき凡々№7」中の語句を修正します)(修正前)「(カンボジア人は)男性は大柄でハンサム」➜(修正後)「(カンボジア人は)男性は大柄で赤銅色の肌をもち、それぞれにハンサム」

 

ときどき凡々№7 2017730・カンボジア・プノンペン発

 カンボジアに住みだしてから5カ月が経ちました。一日が終わるとやはり少々疲れ、夕食後、横になるとそのまま眠ってしまうようです。深夜、目覚めても「健康第一」などと自分に言い訳をして、トイレ後はまた睡眠。しかし朝は5時に起き、「天声人語」(朝日新聞コラム)に目を通しております(ネットで)。

 せっかく(?)カンボジアまで来たのだから、腰痛(円背)をなんとかして軽減したいと、長男推奨のストレッチ体操、また小一時間の散歩も試行中。なかなか効果は上がりませんが、何か始めると何か面白いことも起こるようです。先日の散歩中、こんなことがありました。大通りを横切ろうとして、バイクや車が途切れずウロウロしていると、いきなりむんずと腕をつかまれました。見ず知らずのおばちゃんです。振りほどこうとすると、ますます強くつかんで真剣。次の瞬間、彼女は私の腕を引っ張ったままバイク洪水に突入。観念して私も腕を預けたまま、何とか大通りを渡りきり、そこで顔を見合わせてニタリ。

 大通りではありませんが、私が住む住居の前の道路では毎日朝市が開かれ、野菜や果物が路上に並びます。眺めるだけでも楽しいですが、今朝ふと脇に目を移すと先日のおばちゃんがいて、顔を見合わせてニタリ。この「ニタリ関係」のご近所衆が(散歩道でも)少し増えたようです。

カンボジア人は言われるように、明るく陽気でよく笑い、男性は大柄でハンサム、女性にはアンコールワット遺跡の浮彫りのような、豊満なバストの方が多いようです。そして私が印象づけられたのは「よく歌う」ところです。

コンポンチュナン校時代、土砂運搬ダンプ運転手数名の方々と接する機会がありました。と言っても毎朝あいさつを交わす程度ですが、私が必ず脱帽(野球帽)するので親愛感を持たれたのか、前を通ると私の肩を叩いたり、私が一人の時は「ふかしイモ(?)」を届けてくれたりしました。(彼らは車内か、簡易ハンモックで眠り、調理道具、食材等を持参しての自炊)その彼らが休憩中、食事中、移動中など、突然歌い出すのです。ほんのワンフレーズですが、他人にもはっきり聞き取れるくらい明瞭に。

ところがその後、学生達も授業時以外ではよく歌い出すのに気づきました。男女の違いはなさそうです。今のプノンペン校のカンボジア女性講師陣も、それぞれ仕事の合間などにワンフレーズを小声で口ずさみ、それが私にも快く聞こえるようになってきました。ささやかですが、これも「異文化理解」といったものでしょうか。元々歌といったものは、その時の気分に合わせ、本人自身で楽しめば良いものかもしれません。・・・さて私は何の歌にしようかな。

今回は日常の一端をお伝えしました。いま日本は「猛暑」なのでしょうか。当地は雨季でもあり案外涼しいです(31℃~32℃)どうぞ皆様お大切に。

 

ときどき凡々 №6 2017・7・5 カンボジア・プノンペン発 

 ご無沙汰いたしました。実は5月末に、急に勤務校が、コンポンチュナン校(スワイポップ村)から、カンボジア国首都のプノンペン校に変わりました。理由は私の体調(腰痛他)などで、希望はしていたのですが、急な転勤に驚きました。10年ぐらい前まで電気も通じていなかったというカンボジアの寒村から、この国最大の都市であるプノンペンへと移りました。街角には人や車やバイクやトクトクがひしめき、喧騒とごみと人間の体温が醸し出す「生温かさ」のような生活臭が漂う下町で、私は相変わらずフラフラ、ウロウロしております。(トクトクは4人乗りの簡易バス)

 コンポンチュナン校と別れるとき、こんなことがありました。土曜の午後にその異動が不意に伝えられ、日曜の午前中には出発となりました。ここは全寮制ですが土曜は家に帰る学生もいて(同僚日本人教師も外泊)、学生全員と別れの挨拶は出来ません。いっそ誰にも黙って去ろうかと思ったのですが、現地スタッフの勧めもあり朝食(朝6時半・コンポンチュナン校は三食とも学生の手作り)時に居合わせた十名ほどの学生に伝えました。

 荷物をまとめ、午前9時すぎに食堂(作業場に円卓いくつかといすを並べて三食とも会食)へ行くと、学生達が集まっていました。スタッフが私のために別れの場を作ってくれたようです。出発(スタッフの車で)もあと10分ほどに迫った時、誰か分かりませんでしたが、突然学生の一人が「先生が好きです(日本語)」と口走ったようでした。まるでそれが合図だったかのように、その場の学生達が、横や後ろに顔をそむけて泣き出してしまいました。私も胸が熱くなり、一人びとりの手を握りましたが、中には泣きはらしたような表情もあって、私は返す言葉が見つかりませんでした。

今期(3月~7月)の学生19名をコンポンチュナン校に迎えて2ヶ月半、日本語ゼロのカンボジア人学生諸君とクメール語(カンボジア語)ゼロの私との出会いは、文字通り「あいうえお」から始まりました。私の勉強不足、日本語力の低さゆえに、同僚日本人教師からご指導も頂きましたが、学生の皆さんには多大の迷惑をかけてしまいました。今回は私の事情が主因での転勤であり、文句を言われて当然なのに逆に彼ら彼女らは、心ときめく言葉と真情でわたしを送り出してくれたのでした。宿題ノートをリュックに詰めて階段をヨタヨタ昇降した私に、彼らは「先生も大変だろうけど、私たちだってつらい体験をしてきたんですよ。だから頑張って」の人生エールを贈ってくれたのかもしれません。

カンボジアはアジア最貧国のひとつであり、不幸な歴史もあって、社会制度も生活面インフラ整備も、遅れています。私の勤務する職業訓練校に入る学生達も、多くは極貧の家庭出身で、貧困から抜け出る最後の手段が、借金をしてでも「息子や娘を日本に就職させ、家庭に送金させる」ことだったのかもしれません。

6月中旬には日本に就職する学生の付き添いで一時帰国しましたが、島原では入院中の姉に会えたのみでした。いま、姉は退院、私自身も元気でおります。どうぞご安心下さい。

 

ときどき凡々 №5 2017・5・14 カンボジア発

いま自分はいったいなにをしているのだろう。何の目的でここ(カンボジア・コンポンチュナン州・スワイポップ村)にいて、いったい何ができるというのか。午前5時頃目ざめ、今日の予定をぼんやり頭に描きながら、そのような思いにとらわれて、ぐずぐずと時を過ごしてしまうことがよくあります。

 

昨年、私は福岡県久留米市にいて、「トシビーンスクール」というミニ塾で、チャプリン映画「独裁者」のラスト、彼の演説「DICTATOR(ディクテイタ―・独裁者)」を学びました(原文)。彼はその時代(第2次世界大戦前)から、人間の合理的(?)「機械文明」といったものの危うさに、警鐘を(命懸けで)鳴らし続けてきた人と私は考えます。チャプリンは警告します。「欲望が人々の魂を汚している。機械よりも貴重なのは人間性だ。知識や効率より心を大切にしないと、すべてが力関係となりやがて人類は滅ぶのでないか」と。

21世紀の今、アメリカや中国、ロシアが、多国籍企業、軍産共同体と結んで目指そうとしているものは結局、何なのですか。日本安倍政権がアメリカに追随しながら、私たち国民を追いやろうとするその先には、いったい、何が待ち受けているのでしょうか。

 

カンボジアは雨季に入り、日に何回かは、スコールというのか、烈風を伴った驟雨(しゅうう)に見舞われます。しかし案外朝方は晴れ間も多く、私は腰痛を気にしながら。農道をひょこひょこと歩いております。白い牛たちが草原を横切り、牛飼いに手を振ると、笑いながら応えてくれます。そのような折、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節がふと念頭に浮かぶようです。

 

「(略)野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニヰテ/東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲオヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイイトイヒ/北ニケンクワヤソシャウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ/ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」

 

この詩を、いま一度味わってみたいものです。宮澤賢治さん、どうぞ「銀河鉄道」に乗り、その「心」を私達に伝えに来てください。カンボジアにも是非!

 

ときどき凡々№42017年4月22日カンボジア・スワイポップ村発

  いま、土曜の午後2時、気温は36℃、自分の部屋(木造の職員寮)でこれを書いております。クーラーなしで暑いけれど、2階なので窓から微風も入り、窓外には学校(ここは日本語と農業の実習校)の畑(約4ヘクタール・近くはきゅうり畑)が広がり、案外快適です。

 カンボジアに来て2カ月が経ちました。少々痩せたし、腰痛には相変わらず悩まされております。授業や人間関係の悩みもあります。しかし大きく考えれば、自分は勿体ないくらい幸せな毎日を過ごしているし、その有難さを深くかみしめております。

 当地の風習で、結婚式や葬式には数日から1週間ほどかけ、大勢の人が集まります。それは良いのですが、静かな雰囲気が好きな私には、うるさくて少々不愉快でした。たとえば結婚式ですが、そのお祝い音楽(CD?)を、なんと朝5時頃から夜の11時頃まで、ラウドスピーカーでがんがんかけまくるのです。静かな村に大音量が流れます。ウーム許されない騒音・・でもだれも文句を言わないで(あ、今、小鳥が2羽、窓の木枠にとまって、チュンチュク鳴き出しました。カワイーイ・・でもな、頼むから中に入らないでくれよ、入るとお互い大変面倒なことに・・おっと飛び去ってくれました。ヨカッタ・・)

 翌日、村の店まで歩く途中で、原色の大きなテントを庭に設け、大勢の人がたむろする光景に出合いました。「ハハンここだな」と眺めていると、一人が私を手招きするじゃありませんか。「ヨーシ度胸度胸」と中に入ると、花むこを囲んで酒盛りの真っ最中。私も缶ビールを勧められ、大声で「おめでとうございまーす。カンパーイ!(オール日本語)」と叫ぶと、皆さん大喜び。次から次にビールやおつまみ(肉の辛し漬け?等)をいただき、「カンパーイ!」を連呼する国際親善のひとときとなりました。

 現在の心境(?)ですか。そうですねえ。→「うるさいのは好きじゃないけど、それが長年の土地の風習ならば、結婚式や葬式を派手にやっても好いんじゃない。皆がそれで満足ならさ」と言ったところかなあ。

 

ときどき凡々№3 201749日カンボジアスワイポップ村発

今日は日曜で授業がありません。朝5時過ぎに起床。幸い昨日の下痢は治まったようで、ほっとし、万物に心より感謝しながら起床。私は目下、三度の食事を全部ここの食事に頼っています。つまり男女19名のカンボジア人学生達が、市場から買い出し、全く自分たちだけで調理し、配膳までしてくれたものです。だいたい、汁物のどんぶりと、魚(川魚)や肉(豚肉が多い)料理の大皿がでて、そこから各自が銘々皿のライス入り皿に取り、スプーンとフォークでいただくのです。お味はなかなかのもので、ほぼ満足しております。少々辛いものが苦手な私のために、時には調味料の別皿まで用意してくれたり、有難いコックさん達です。

もう一人の日本人の先生は時々食事を抜かれるので、私一人が日本人だったりすることも多いのですが、外国人の中でも、違和感やストレスはほとんど感じないタイプなので、大丈夫です。本当に「チュガニュ(クメール語・おいしい)」!

現在最大の悩みは(自分の日本語教授能力の低さを除けば)、「アリ問題」かもしれません。当地のアカアリは、2~3ミリの小兵のくせに、噛みつかれると悲鳴を上げたいほど痛いのです(蟻酸)。それが部屋中に展開し、洗濯ロープに干した下着にまでたかる始末。うっかり暗い所で着替えたりすると大変なことになります。

でも早朝、砂糖ヤシの背景に、茜色に染まる牧場や畑作地を遠望しながら歩く楽しみは、当地でなければ、なかなか味わえないかもしれません。路傍には小さな白い花も咲いております。 

 

ときどき凡々 №2 2017325・カンボジア発

一週間の一人授業が終了。この間、同僚教師が日本に出張で、全く私のみでカンボジア人学生(19名男女半々)に毎日、3コマの日本語授業を実施。彼らは大半が日本語初心者で、あいうえお・アイウエオの読み書き学習を熱心にやってくれ、大量の宿題も毎回チェックし返却出来ました。

夜間に実施した「ひらがな全46文字テスト」の2回目では、14名が満点(正確に書ける)で嬉しくなりました。しかし一番気になっていたC(19歳女子)さんが、なんとマイナス26から、マイナス27へ転落。私も落胆。

私は朝昼晩の食事を学生と食べております。それは学生達が交代で買い出しから調理までを引き受けるものです。どんぶりや大皿

に入った汁物やおかずを、ライス入りの自分の皿にとって食べる方式ですが、毎食、Cさんは私の隣席です。彼女は私の右手少々不自由を知っており、そっとおかずを取ってくれたりするのです。そのCさんがこの成績とは・・・困りました。うーむ。

今日は土曜で授業がありません。昼食後、この辺りでは一軒しかない店へ、ペットボトルの水を買いに行くつもりです。途中で、いつも通り、白い牛と何頭も出会うことでしょう。

 

ときどき凡々 №12017318・カンボジア発

219日、大失敗(期限切れの古いパスポート持参)から始まった、私のカンボジア行は、その後も様々な失敗を重ねながら、でも何とか進行中。基本的には心身とも健康ですので、どうかご安心ください。

当地、コンポンチュナン州スワイポップ村の職業訓練校(私企業)職員宿舎の第一夜では、文字通り一睡もできませんでした。理由は単純で、自室はニ階で床は厚い板張りですが、その板がどれも1センチほどの間隔で空いているのです。階下は作業所で、夜になるとその隙間から無数の元気な蚊の大群が、ワア~ンと上がって来る次第。蚊帳(懐かしのかや)もあるのですが床面からの侵入には無防備。でも翌日には(予定通り)床にビニールシートが張られ、安眠が確保出来ました。

313日から授業開始。生徒は男子9名、女子10名で、年齢は19歳から30歳まで。彼らは、農作業と日本語の研修をうけ、数ヵ月後には日本に渡航、就職となるのです。

純朴で心優しい(私の腰痛を気遣って自主的に荷物を運んでくれたり)若者達です。でも勉強は嫌いそうだなあ。ウーム。(終) 

 


誠に勝手ながらのお願いを、
「月刊凡々」第96号 という形で
掲載致しました。一読して頂ければ幸いです。    2016年長月

       
         
   長崎県島原市  
    元 市議会議員 清水 宏   
     
   66歳で市議会議員“初”立候補。最下位で当選させて頂きました。
「凡人」なのに「変人」と言われることもあるようです。活動報告や考えを
月刊凡々」(私の市政だより)として発行しておりました。お読み下されば幸いです。
 
 
 
 
       


            立候補時の「マニフェスト」です
 
       市政に愛を!  
 
 
街頭演説のひとコマです       
   ① 郷土への愛
      ・美しい自然を守る
      ・切実な住民要求(超大型店・市議定数問題等)には即応
   ② 高齢者への愛
      ・福祉カットには市の保障を
      ・医者の「家庭往診」復活
   ③ 若者への愛
      ・全国事例、アジア規模での雇用創出
      ・財政借金のツケで将来世代を苦しめない長期計画
      ・子や孫を戦争で死なせない、世界平和実現は現世代の責務
         ④ 女性(男性)への愛
            ・「安心子育て」は、保育所・育児休暇・児童手当等の充実と
             夫(家族)の快い育児分担から
         
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       ・市議として自ら市議定数是正20を
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